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大友の姫巫女

南海死闘編

閑話 その五 べんりなおひめさま


  戦国末期、西国から始まった物流革命は劇的なまでに時代そのものを変え、ついには戦国そのものを終わらせた。
  この話は、具体的に何が変わり、何が広がり、何かを終わせたお姫様にまつわるあだ名の話である。

 遥か先の地から手紙が届く。
  それがどれほどの恩恵を与えるかは知らぬものがいないだろう。
  この郵便制度が始まったのが九州博多であるというのも偶然ではない。
  西国屈指かつ、世界でも有数の国際交易港に成り上がろうとしていた商都博多にとって、その庇護者である豊後大友氏の意向というのは是非に抑えねばならぬ重要事項だった。
  特に商都博多躍進の立役者である大友義鎮長女珠姫の意向はその独創的アイデアまで含めて文字通り金のなる木だった事もあって、博多-府内(別府)間の連絡は焦眉の急だったのだ。
  そして、それを知らぬ珠姫ではなく、博多-小倉(門司)-宇佐-別府-府内を結ぶ街道と宿場を整備し、海路二日かかるこの距離を馬で同じ時間で届くようにした功績は計り知れない。
  これによって海が荒れた時でも連絡できるようになり、スペインの府内襲撃時に流れた『珠姫謀反!』の虚報を打ち消して彼女自身の命を救う事になる。
  海路の方は積極的に導入した南蛮船と毛利と手打ちをしたことによる瀬戸内海通行によって、この郵便制度が堺を軸に畿内にまで拡大。
  九州にいた珠姫が戦国末期に朝廷内に影響力を行使できたのもこの郵便制度のおかげである。
  郵便物が届くという事は、それ以上の物も届けられるという事で、南蛮船を用いた博多(門司)-堺(京都)の物資輸送は巨万の富を大友毛利連合に与える事になった。
  既に筑前黒石と呼ばれたコークスや、筑前鋼と呼ばれた鉄という輸出品を抱えていた北部九州からそれ以上の輸出品が誕生する。
  では、彼らは何を堺に運んだのか。

 酒である。

 男の娯楽である『飲む・打つ・買う』のうち高級遊郭経営と大友女を代表とする高級娼婦によって世界の『買う』を支配していた珠姫が目をつけたのは、『飲む』つまり酒であって、これは遊郭経営にも絡むからある意味必然の流れだったといえよう。
  豊作続きの九州にて余る穀物を酒に変え、樽に詰め込まれた酒が堺から全国に広がったのだ。
  飢饉対策として一定限作成が義務付けられたぶぜん(さつま)いもの付加価値品として、琉球から九州に伝えられた蒸留の技術によって生まれた芋焼酎や、珠姫の好みから広がった葡萄酒が博多の商人の間で流行して堺に流れ込み、畿内の酒職人が博多に出向くなどその交流が広がった時、それが発明される。
  十石入り仕込み桶の開発である。
  これが日本の物流を劇的に変えた。
  酒の大量生産と搬送が可能になっただけでなく、味噌などの発酵食品が大規模流通に乗るようになり、桶前提の酒である清酒が作られたのもこの頃である。
  そして、珠姫はこの桶を南蛮船に大規模導入する事であるものの大量入手を決意。これも歴史を変える事になる。

 雪と氷。つまり大規模氷室の運用を開始したのだ。

 彼女が好んだワインは冷えたほうが美味しいからそれが狙いだと今では言われているが、どこで知ったのかは知らないが、彼女は冷えたあるいは凍らせた食品が腐りにくい事を知っていた。
  南蛮船に大規模氷室を備え付け、加熱処理した上で密閉した瓶や冬のあいだに蝦夷や樺太にて凍らせた食品を日本各地の港に作らせた氷室にて貯蔵する事で、食糧事情が劇的に改善。
  雪が積もり、土地の実りが少ない山岳部の民達も忌むべき雪や氷が銭になる事でそれを供出する事で食料を確保でき、貨幣経済と物流に組み込まれていったのである。
  そして、山岳部の雪や氷の搬送に大活躍したのが馬車だった。
  大規模物資輸送前提で発明された馬車は最初筑豊の炭田地帯に投入され、遠賀川からの川ひらた(つまり河川輸送)まで運ぶ足として大活躍した。
  元は軍事用の騎兵育成に力を注いでいた珠姫はその使い道として馬車を筑豊に投入していたが、氷や雪という『重たく・速く・大量に』運ばねばならぬ商品を作り出した事で馬車は一気に広がったのである。
  そして、馬車が運用されると同時に馬車運用が前提となる大規模街道整備が一気に加速する。
  需要がある場所には供給が付随する。
  大規模な鉄の生産地でもあった北部九州の鉄を使った農作業具が一気に広がったのもこの時であり、その鉄器製品の普及にまで彼女は銭を出したというのだからもはやあいた口がふさがらない。
  後に『公共事業の母』とも呼ばれる彼女が西国を中心に巨万の富を惜しげもなく注ぎ込んだ、新田開発・水道整備・街道整備・鉄器普及は彼女亡き後も続けられ、特にこれら四点のモデル事業と言われる筑後川総合河川計画は筑前・肥前・筑後にわたって、

「九州の米は筑後川で賄う」

とまでよばれる大穀倉地帯を生み出すことになるのだがそれは後の話である。

 一方で、『飲む・打つ・買う』の打つ事にも彼女は手を入れる。
  彼女の本拠地である杉乃井御殿下に賭場を開設すると同時に常設芝居小屋を設け、総合エンターテイメント事業に進化させてみせたのだ。
  この杉乃井の賭場は従来のサイコロ賭博だけでなく、南蛮や大陸から流入したカード賭博も行っており、賭場の建物が大きく、そこに遊女を配した所に特徴がある。
  彼女達遊女はその賭場にて勝った男がそのまま買う事ができると同時に、時折賭け事に参加しては負けて、負けるたびに着物を脱ぐという行為で男達を欲情させた。
  ちなみに、『因幡服』と呼ばれるバニースーツが始めてお目見えした場所としても有名で、うさ耳がぴこぴこ揺れる様に狂った男達の魂の記録(というなの破産日記)が残っていたりもする。
  芝居小屋は誰にでも解放された上に常時公演が行われて、賭けに勝った客からのおひねりと負けた客からの罵声によって芸が磨かれ、旅芸人一座はここでの公演を成功させる事が夢とまで言われるようになる。
  なお、この芝居小屋一番の見世物は某姫のストリップというのは公然の秘密となっていたりする。

 手紙が届くということは遠距離注文が受けられるという事であり、遠距離間の決済が行われるという事でもある。
  既に証文取引や明帝国の銀決済の導入などで『歩く中央銀行』と呼ばれていた彼女だが、その経済政策によって花開いていた座屋という組織とそれを金づるにした座屋武将・大名の対策も忘れてはいなかった。
  太宰府の復活にあたり、太宰府権限で外位を正式に復活させ、臼杵・一万田・田原・戸次・少弐等の座屋武将達に外位を授ける事で他の国人衆との差別化を図ると同時に、官位の位によって座屋収入の幾許を税金として徴収。太宰府の運営資金としたのである。
  これはそのまま後の中央政権に引き継がれ、大規模な座屋については許認可制としてそこから税を徴収し、官位を持つ全国の大名や公家からも金銭を徴収する事で彼らへの監視・統制に使われる事になるのはのちの話。
  こうして物流革命に後押しされた貨幣経済への移行を大規模に進めた結果、『珠姫銭』と呼ばれる皇朝銭復活と彼女の姿絵が書かれた『姫紙幣』と呼ばれた換金保証付き小規模証文--紙幣--に繋がる。
  この『珠姫銭』と『姫紙幣』によって通貨供給量を爆発的に増やした上に、期限付きの兌換令を交付した事で西国における通貨混乱は完全に終止符を打つことになる。

 予算を確保し、安定した食料供給が受けられる太宰府が最初に行ったのが、二日市に開設した病院と学校と孤児院の開設だった。
  博多ではなく何故二日市かといえば温泉による湯治効果を狙ったからであり、同じ理由から府内の病院の別院が別府にも作られる事になり、日本の病院は基本的に湯治場と一緒に建てられることになる。
  高級娼婦を中心としたアジアの奴隷交易の中心となった博多は、それゆえ異国からの奴隷とその子供達の問題に頭を抱えており、その救済を目的としたのだ。
  彼ら孤児に高等教育を施す事で貧困化を避けると同時に、彼ら孤児の生活・治療というサンプルを得た事で医療関連技術の向上とその育成に寄与する事になる。
  現在の北部九州において、筑豊炭田を中心とした鉱山開発、筑後川総合河川計画、博多の商業・海運事業とありとあらゆる所で人が不足しており、その人材育成の急務から小倉にも同じ施設が作られたのだが、こちらは毛利側への人材供給という側面もある。
  この時、珠姫が言明したのが各学校・病院間の情報共有であり、技術の秘蔵だけは絶対に認めようとはしなかった。
  その結果、各病院のカルテや学校の研究資料が馬車によって運ばれ、漢方だけでなく南蛮医療を取り入れた日本医学は各国から学びにくるほどの発展を見せるようになる。
  これが彼女自身のマリア信仰のすり替えと絡んで、『極東のマリア様』と呼ばれるようになるのだが、既に欧州にて『大淫婦バビロン』の名を頂戴していた事もあって『極東のマグダラのマリア』と長く語り継がれもするのだが。
  なお、彼女自身は『大淫婦バビロン』の名前がお気に入りらししく、それをモチーフにしたストリップショーをやっているあたりいろいろとダメっぽい。

 物流の拡大に生産の爆発的増大、通貨政策による経済安定と教育・技術関連への投資はその人々の安定志向につながり、戦国を終わらせる空気を作り出す。
  だからこそ、それらの前提となる外交安全保障、つまり島津戦に珠姫がこの段階にきて踏み込んだのはある意味必然といえよう。
  彼女はここまで隔絶的な国力差になっても島津相手では個々の戦闘で負ける事を確信しており、それゆえに総合力で島津を押しつぶそうと考えていたのである。
  大量の輸出品によって得た富によって、堺や近江国国本、大陸や南蛮からまで鉄砲と大筒、その使用にもはや自力供給では追いつかない火薬を大量に購入し続けた。 
  それらの火器と兵糧を戦場に運搬する為に整備された街道を馬車が大量に駆け抜けた。
  それは集められた万を超える兵に、温かい食料と『酒・賭博・女に芝居』という慰安用の娯楽を提供して士気の低下を防ぎ、結果として略奪防止の制止力となっただけでなく、送り出した九割近い兵が戦場に投入できるという効果を生んだのだ。
  医療関連技術も惜しげなく負傷兵に与え、彼らの回復が古参兵に繋がり、その後の合戦においてどれだけの寄与をしたかは語るまでもない。

 珠姫は島津を潰す為だけに、火器と火薬と兵をかき集め、大規模公共事業や技術革新を推し進め、それらを行いうる銭をかき集め続けた。
  それをのちの言葉で語るならば、『総力戦』と言う。
  この概念とそれを行使してみせた実行力において軍事史においてすら彼女の名前を外すことはできず、ここでも彼女は名前を記される事になる。

 これらの伝説と化した彼女の物語は彼女が整備した郵便や航海路によって日本だけでなく世界に広められてゆく。
  このようにありとあらゆる所でいろいろな名前を得た彼女だが、既に女として爛漫に開花したその体と奇想天外かつキテレツな流行の最先端を突っ走る彼女の容姿そのものにも名がつくことになった。
  当時の美女の代名詞である『便女』では足りぬと世の人が彼女に送った名前は『便姫』。
  この名も後の世だと超一流娼婦の称号として多くの女達が求める事になるのだが、彼女のご乱交伝説と相まってエロ方面に特化した名前になってしまったのも自業自得だろう。


 

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