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大友の姫巫女

南海死闘編

第八十五話 菊池川合戦 その一

地理説明

白 大友家
黒 島津家

 

 

柳川鎮台(大友珠 一万>数日後三万)

            南関

 

↑筑後                                      →豊後

        (志賀鑑隆 七千)
         玉名遊郭
           □      隈府館(隈部親永 二千)
                   ■

                  隈府城(島津義弘 二千)
                    ■
                     
                       

            田原坂(島津家久 千)     
              ■       

 

          ▲金峰山(天草キリシタン勢 数千)     
                

 

 志岐城(交戦準備)                      浜の館(阿蘇家本拠)
   □  才津城                        □                        
      ■      宇土城                
              ■
                                         →日向

 

 

 水俣城(島津軍包囲中)
   □

               人吉城
                 ■

↓薩摩

 

 

 玉名温泉は古くは立願寺温泉と呼ばれている。
  そんな温泉地に遊郭を早い時期に作った珠姫は、当初温泉資源を使った資金稼ぎしか考えていなかった。
  街道沿いの山鹿温泉に遊郭を立てればと考えなかった訳ではないが、街道沿いで栄えて地場利権がしっかりしている山鹿温泉だと進出が後だしになるのと、海路を抑えたかったというのが玉名遊郭設置理由である。
  当人、初期から対島津・対竜造寺戦を意識していたから、肥後については放棄する戦略だったからに他ならない。
  その後順調に銭を稼ぎ出した玉名遊郭は、鎮台制度の導入に伴ってその役割が変化する。
  珠姫直轄拠点なので、大友家を通さない珠姫個人の拠点として意識されだしたのだ。
  また、地理的状況から街道筋から外れるが海岸線周りならば視野に入り、隈府鎮台と柳川鎮台の間に挟まっている玉名鎮台は当たり前のように対島津戦の拠点として機能する。
  その結果、肥後にて島津の嵐が吹き荒れる中、大友側最後の拠点として玉名遊郭は島津軍の北上を受け止める事になった。
  元が遊郭なので防御施設と言っても、土塀と堀がある程度。
  島津が攻め込んでくる南側に菊池川が流れているのが救いと言えなくもない。
 
「川沿いに柵を設けよ!
  弓も鉄砲もこちらが多いのだ!
  島津を近づけねば、負ける事はない!!」

 守将として玉名遊郭の大友軍を率いるのは志賀鑑隆。
  珠姫との付き合いは実は四郎より長い彼は、同時に御社衆を率いて彦山川合戦で御社衆の崩壊を目の当たりにしている一人だったりする。
  また櫛田崩れによる豊後国同紋衆の粛清に巻き込まれた形でこの地に志願した彼は、隈府鎮台大将として長く肥後国人衆とと付き合っていたという経験もある。
  ある意味、本隊から見捨てられた形になっている玉名遊郭がいまだ七千ほどの兵力を維持できていたのは彼の指導力の賜物である。
  兵力七千の内訳は、彼自身の直轄戦力である志賀家郎党が千、和二家・大津山家・小代家等の北肥後国人衆が三千。
  隈部親永に城を追われた赤星統家の一族五百と焼いた隈府鎮台大将斎藤鎮実の手勢五百の千。
  そして四郎こと立花元鎮が率いて置いていった御社衆が野崎綱吉・小林吉隆の指揮の下で二千ほど。
  玉名遊郭に住む姫巫女衆百ほどが事前の申し合わせによって彼の指揮下に入っている。
  なお、隈府鎮台大将の斎藤鎮実ではなく志賀鑑隆が大将になっているのは、この地が珠姫直轄拠点であり、色々運が悪い事があったとはいえ斎藤鎮実が隈府鎮台から撤退した責任を取って辞退した為である。
  寡黙を良しとして、不言実行を行ってきた彼が声を出して準備をするのは、彼の率いる兵に問題があるからに他ならない。
  御社衆は言うに及ばず、本来信頼できる直轄戦力の志賀家郎党も櫛田崩れの際に足軽大将クラスから内応者を出してかなりの粛清を行わざるをえなくなり、見かけ以上に戦力が低下していた。
  急遽鎮台大将につく羽目になった斎藤鎮実の手勢は錬度はあるが土地勘がない。
  そして、北肥後国人衆は島津軍の北上に際して領地に帰還はしていないが、自領が襲われかねない不安から全力を出せるとも思えない。
  このような状況を総大将である珠姫はしっかりと認識しており、『撤退可』だけでなく『降伏可』までの裁量権を志賀鑑隆に与えていた。
  だが、志賀鑑隆は玉名遊郭にて島津軍を迎え撃つ事を選んだ。

「島津の北上限界線は国境の南関まで。
  それ以上踏み込むと背後を突かれるわ。
  日向がこちら側にあり、常に本国薩摩が危険にさらされている以上、島津は必ず肥後で攻勢を止めざるを得ない。
  ならば、この戦は負けても問題なし。
  後でいかようにも取り返せるわ」

 志賀鑑隆が玉名篭城を選んだのは、珠姫の的確な情勢判断の書状だった。
  だから逃げろという説得材料だったのに、篭城するなんてと珠姫は後で頭を抱えたのだが、志賀鑑隆は珠姫自身の情勢判断が間違っているとは露とも思っては居ない。
  だが、珠姫があえて伏せた戦の終わらせ方に気づいたからに他ならない。
  合戦というのは、終わらせるにも手間がかかる。
  島津が肥後で止まる為に合戦を終わらせる為には、どうしても大友軍と戦う必要があったからだ。
  元々、島津軍の北上は相良家と阿蘇家の肥後国人衆の後詰という形で介入したものだ。
  その阿蘇家とは、白川合戦にて打ち破っているから本来の戦は島津の勝利という形で終わっている。
  問題は、その戦で連鎖した隈府家の扱いにあった。
  隈府家はこの合戦において島津側についたので、大友家からの謀反という形になってしまっている。
  隈府家を攻めていた四郎や志賀鑑隆もそこを問題視したので隈府家を攻め立てたのだ。
  ところが、白川合戦で勝ってしまった島津家はその結果、隈府家の問題も抱え込む事になる。
  だからこそ、島津軍は大友家と戦う為に北上せざるを得なかったのだ。
  勝つにせよ、負けるにせよ、大友家の旗と戦わないと島津は止まらないのだ。
  だから、玉名遊郭から逃げ出せばという珠姫の意見は、島津に『負けた』を伝える明確なメッセージとなる。
  同時に、大兵を集めた大友家が成す統べなく肥後から叩き出されたと西国に激震のように走り、櫛田崩れ以後動揺続く大友家は更に揺れ、珠姫が警戒している竜造寺家や四郎の実家である毛利家すらどう動くか分からない。
  大友同紋衆で加判衆まで上り詰めた志賀鑑隆には肥後一国放棄による損切りがものすごく危ないものに見えていたのである。

(柳川には姫様が集めた兵が三万居る。
  この兵が肥後に入れば全てひっくり返せるのだ。
  何よりも、あの姫様に負け戦の泥をつけさせて、大友衰退の始まりなど後世に伝えられては我ら同紋衆の名折れ)

 志賀鑑隆は知らないし、珠姫は知っていても教えない。
  織田信長をはじめとする畿内中央政権の拡大に合わせて、その中央の権威に降る事が彼女の最終目標である事を。
  肥後一国失って竜造寺が島津と組んだとて、竜造寺隆信の野心から最後には両方戦火を合わせる事を珠姫が見抜いていた事も。
  織田家の拡大が瀬戸内海水上利権を脅かす以上、毛利家はここで大友家を裏切っても何の得も無い事を。
  最終的には、戦国の世が終わる時に豊後一国だけ残っていればいいと珠姫が考えていた事を。

「島津軍先鋒隈部親永の手勢が山鹿に入りました!」
「田原坂に島津家の旗が!
  旗印から、島津家久かと!!」

 刻々と入ってくる報告が玉名を島津軍が取り囲む形になってゆく。
  島津家は白川合戦の勝利によって、国人衆をかなり味方につけた。
  その為に勝手働きと称して兵力を増強しているのだろうが、それがどれぐらいなのか分からない所だった。
  何しろ、勝手働きだから島津軍とて把握できていないだろう。

「やつらはこっちに来るのか?
  それとも南関に抜けるのか?」

 南関に抜けるというのは筑後に侵攻することではなく、和二家・大津山家等の領地に向かって焼き働きをする事である。
  これをされると北肥後国人衆の士気は致命的なまでに落ちる。
  だからこそ、志賀鑑隆は島津軍の目をこちらに引き付けた。

「北肥後衆を選抜して、大物見を山鹿の方に出せ。
  島津の手勢が居て一当てしたら、そのまま帰らずとも構わぬ」

 物見というのは偵察のことである。
  これに大がつくと威力偵察の意味まで含まれる。
  それに異を唱えるのはその北肥後衆の一人、大津山資冬。
  北肥後衆の中でも田原鑑種と繋がる大友派最右翼の彼は、そのまま北肥後衆が崩壊しかねない危険を見抜いていたのである。
 
「お待ちを!
  それで北肥後衆を帰してしまえば、戦になりませぬぞ」

 彼の忠告に志賀鑑隆は頷きながら答える。
  その姿にまったく揺るぎはない。

「大津山殿。
  その忠告はまことに正しきもの。
  とはいえ、島津がそのまま南関に抜けたらやはり北肥後衆は当てにならぬ。
  姫様の本隊が筑前まで来ている以上、南関を押さえられたら肥後に入る事すら適わぬ。
  北肥後衆は帰さねばならぬ」

「とはいえ、それでは玉名が落ちてしまいますぞ!」

 彼ほどになると寝返る事もできぬぐらい大友側に恩がある。
  それゆえに南関を取って、玉名を見殺しにしたあとで北肥後衆が寝返る時その標的にされかねないから必死である。 

「何。
  守るだけなら兵は少ない方が楽。
  下手に城を出ると島津に負けるゆえ、城に篭る理由が欲しいのだ。
  大将は斉藤殿にお願いしたい」

「了解した」

 志賀鑑隆とて伊達に戦国の世を重臣として生きてきた訳ではない。
  現在の戦力で島津相手に戦えば負けるのは分かっていたので、ならば篭城するにあたって戦力を減らそうとしていたのである。
  なまじ地盤がある北肥後衆を篭城に使って島津に本拠を荒されると脅された場合、内応の可能性があるからだ。
  それならば、北肥後衆は領地に帰してしまった方が戦える。
  斎藤鎮実を大将に推挙したのも汚名返上の機会を与えると同時に、隈府鎮台大将という正規の命令権者であるというのも大きい。
  彼が睨みを聞かせるならば北肥後衆も寝返りなどの勝手な動きはできなくなるだろう。
  斎藤鎮実の承諾の後、大津山資冬が志賀鑑隆に尋ねる。

「姫様本隊の後詰は何時来るのかご存知で?」

「大軍ゆえ動きは遅いが、三日もすれば南関には先陣が入ろうて」

 三日。
  篭城ならば守れない日数ではない。
  そして、島津は今日にもここに来る可能性が高い。
  だからこその大物見であった。

「分かり申した。
  御武運を」

「貴殿こそ。
  南関を守り通してくだされ」

 斎藤鎮実指揮の北肥後衆三千五百が、大物見として山鹿方面に向けて出陣。
  なお、残留を希望した赤星統家が副将を務める事になった。

「伝令!
  山鹿へ向かった大物見より、島津軍先鋒は菊池川に沿って下ってきている模様!
  既に小競り合いを行っています!」

 大物見を出して一刻ほどして届いた伝令に志賀鑑隆は舌打ちを隠さない。
  彼が思った以上に島津軍の動きが早い。

「場所は!」

「船山のあたりです!
  兵の数は不明。
  敵将は隈部親永!」

 船山というのは江田船山古墳の事で古くからこのあたりに文明が栄えていた証拠なのだが、同時に交通の要衝でもありこうして古より合戦が繰り返される場所でもあった。
  隈部親永にとっても地元なだけあって、船山の重要性はわかっていたからこそ押さえにかかったのだろう。
  志賀鑑隆は遊郭の櫓にあがって南を眺める。
  田原坂にも島津軍がやってきているからだ。
  船山に後詰を送った場合、田原坂方面ががら空きになる。

「田原坂の方に出した物見は?」

「まだ帰ってきておりませぬ。
  討ち取られた可能性も」

 隈部親永に因縁がある赤星統家が船山のある東を眺めながら返事を返す。
  篭城する事は変えるつもりはない。
  船山は玉名から見て川の対岸にある。
  小競り合いという事は大規模渡河戦闘に発展していないという事なのだろう。
  そんな志賀鑑隆の希望的観測は、斎藤鎮実が送った続報によって打ち砕かれる事になる。

「船山の合戦、隈部勢が渡河して我らを攻撃!
  数はこちらが上なれど、南関に進む事適わず。
  戦によっては、玉名に戻る事になるだそうです!」

 隈部親永側から見れば、軍を分けて山鹿に攻め込んだように見えるわけで、積極的に攻めるというのも分からない訳ではない。
  だが、物見の報告を信じれば、隈部勢は少数で渡河攻撃までしてきている。
  その意図を考えて、志賀鑑隆は珠姫から散々聞かされていた島津のお家芸を思い出す。

「島津が寡兵であれだけ敵を討ち取れるのは、川を使って包囲しているからよ。
  敵を川の方に逃がして溺死させる。
  だから、絶対に島津の前で川を渡らないように」

「志賀殿!
  よろしければ我らに後詰を命じてくだされ!
  こうなった以上、隈部勢を叩いておかねば、北肥後衆は帰れませぬぞ!」

 固まった志賀鑑隆に赤星統家が後詰を迫るが耳に入ってこない。
  田原坂の島津軍の動向が分からない。
  こいつらが、川向こうに伏せていたらどうする?

「もし、島津軍が船山の先に兵を伏せていたらどうする?」
「……合戦が起こっている以上、田原坂の島津軍も船山の後詰に動くでしょうな」

 島津軍の意図が見えただけに二人の背筋が凍る。
  目の前に功績があるのだから、戦意の乏しい北肥後衆も戦意があがるし、斎藤鎮実は汚名を返上したがっていた。
  合戦はどんどん深みにはまり、隈部隊を撃退した後追撃に移るだろう。
  兵を伏せている島津軍に気づく事無く。
  躊躇う時間も惜しい。

「赤星殿とその手勢に後詰をお願いしたい。
  絶対に川を渡ってくださらぬよう」

「任された。
  首根っこを掴んでも連れて帰る」

 赤星統家隊五百が後詰の為に出陣。
  赤星隊の後詰も来た事で、隈部隊の攻撃の撃退には成功する。
  渡河しての追撃を北肥後衆の諸将は追撃を主張したが、田原坂から出撃して来ているだろう島津軍の事を告げた赤星統家は追撃を拒否。
  日向侵攻経験者で島津軍の手口を体験していた斎藤鎮実も汚名返上の焦りから危うく渡河を主張しようとして、赤星統家の言葉で我に帰り合戦の手仕舞いを命ずる。
  斎藤鎮実の殿の元、当初の予定通り南関に向けて撤退。
  赤星統家は手勢をまとめて玉名遊郭に帰った。

「気になったのだが、赤星殿は因縁ある隈部隊を見ながらよく追撃を我慢できたのが不思議でならぬ。
  よろしければ、その理由を教えてくださらぬか?」

 帰ってきた赤星統家に志賀鑑隆が尋ねるが、答えはあっさりとしたものだった。
  遊郭に溜め込まれた酒を杯に注いで、赤星統家は軽くそれを口にした。

「簡単な事。
  因縁があるから罠と気づき申した。
  隈部の奴等は我らから城を奪った。
  にも関わらず、奴等は手勢をこちらに向けてきている。
  ならば、奪った我らの城に誰が後詰として入っているのでしょうな?」

「なるほど」

 志賀鑑隆も杯に酒を注ぐ。
  再度物見を放ったら、船山周辺に島津軍が集結しているのが確認できた。
  あのまま戦を続けていたらと思うと背筋が凍る。
  大友軍本隊の到着まで後二日。
  戦は佳境に入ろうとしていた。 

 

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