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大友の姫巫女

南海死闘編

第八十四話 豊薩死闘 白川合戦

「姫様。
  外に瓜売りが来ているって」

「追い返して。
  それ、島津の間者だから」

「けど、本多殿が既に買っていますよ。その瓜」

 何やってやがる。
  あの男は。

 南蛮船からこんにちは。珠です。
  水軍を率いて天草の戦に介入中なのですが、はやくも島津の間者に接触するとは。
  まぁ、南蛮船で私の存在がばれるからある意味仕方ないか。
  この時代の航海は水は腐る野菜も腐るで基本的に食料事情は良くありません。
  という訳で、船員達はこうして洋上にやってきた野菜売りを歓迎するのです。
  それは分かっているが、日帰りで寄港地確保しているから新鮮な食事に困らないでしょうに。
  政千代を引き連れて甲板にあがると、そこには瓜にかぶりつく船員どもが。
  ため息をついて文句を言うのを止めることにした。

「とりあえず、志岐麟泉に使者を送ってこっちに来てもらうように。
  後詰を送った以上、この戦はけりをつけるわよ」

 で、しばらくして志岐麟泉がやってきたのでご対面。
  博多でかき集めた雑兵五百を本多正重につけ、少弐政興の陣代という事で松浦鎮が松浦党五百の計千を引き連れての後詰である。

「こんな雑兵どもで戦ができるか!」

 と、本多正重が激怒して鍛錬した結果、錬度は上がらず逃亡者が続出したというおまけがついたので、志岐城に着いたら彼から兵を取り上げる羽目になったという笑い話が。
  めんどくさいやつである。
  話がそれた。
  志岐麟泉の手持ちの兵力は総動員をかけて三千だからこれで四千。
  志岐諸経の方は手持ち二千だが、島津義虎の後詰が千、天草鎮尚がキリシタンの一揆を用いて数千の後詰を行うと志岐麟泉の報告によってもたらされた。
  兵力的には、まだこっちが不利である。

「更に後詰を送るから、こちらからは絶対に手出しはしないように。
  いいわね」

 私の言葉に志岐麟泉が渋い顔になる。
  肥後の現状で鎮圧できる後詰が出せる勢力が見当たらないからだ。

「それは構いませぬが、何処から兵を引っ張ってくるので?」

「これからそれを交渉に行くのよ。
  肥前竜造寺家へ」

 


  南蛮船は有明海に入り柳川に到着。
  柳川城主蒲池鑑盛の歓迎を受けた翌日に竜造寺家家老鍋島信生を呼び出す。
  お互い言葉のドッチボールは堪能しているから話は早い。

「今回の戦、あんたの所どれぐらい兵が出せる?」

「姫様に寝首をかかれないように兵を残すので、八千が限度でしょう」

 佐賀平野を抱えているだけあって豊かだなぁ。竜造寺家。
  そんな事をおくびにも出さずに私は一枚の紙を鍋島信生に差し出した。

「これは……!」

「肥後一国切り取り次第のお墨付き。
  私だけでなく、加判衆全員に父上の花押まで入れているわ。
  何か問題ある?」

 鍋島信生の私を見る目がものすごく冷たい。
  優遇するという事は、島津と共食いする事を意味するからだ。
  そして、筑後は大友領な為肥後統治は飛び地経営となり、信頼のできる実務者を送り込まないと破綻する。
  つまり、目の前に居る鍋島信生に他ならない。
  それが分かってしまうからこそ、鍋島信生は私を睨みつける。

「島津と共食いを企んでいるのでしょうが、我らが島津と手を組んだらどうするおつもりで?」

「それはそれで構わないけど、あんたの当主、野心を燃やし続けているならばそれをしないでしょ」

 私の指摘に鍋島信生が押し黙る。
  つまる所、この交渉は竜造寺隆信の野心の炎がまだ燻っている事を分かっての交渉である。
  大友に喧嘩を売る場合、今の国力では絶望的に足りない。
  たとえば、島津と手を組んで島津が日向を攻めたとしても、こちらは防衛部隊を送るだけで主力は全部肥前に向けるつもりである。
  日向と肥前の交換だったらこっちの方が美味しい。
  また、肥後の竜造寺勢が豊後に突っ込んだとしても阿蘇・九重・祖母の山々に進撃を邪魔されるしその背後を筑後の軍勢が襲い掛かるだろう。
  じゃあ、肥前の軍勢と合流する事を目指して筑後に乗り込んでも肥前・筑前・筑後・豊後の軍勢で押しつぶせる。
  こういう状況下で領土を拡張する機会も現状失われている中で、肥後一国切り取り放題のお墨付き。
  肥後を取れば薩摩への侵略路まで手に入る。
  そこまで取ってやっと大友に反旗を翻す国力を手に入れる事ができる。
  野心が炎上するに足りる褒美のはずだ。

「姫様!
  玉名遊郭から早馬が!!」

 会談中でも早馬の類は入ってくるようにと申し付けていたらからこそ政千代が踏み込んでくる。
  鍋島信生をちらりと見た上で私は政千代に尋ねる。

「ご苦労様。
  で、何があったの?」

「はっ。
  肥後国白川周辺にて、阿蘇家および城家・合志家等の連合軍が島津軍と合戦を行い、大敗を喫したと。
  詳細はまだ分かってはおりません」

 書状を受け取って、私は鍋島信生がいるのに苦虫を噛み潰したような顔を隠そうともしない。
  それが不思議だったらしく、鍋島信生がつい声をかけてくる。

「何か良くない事でも?」

「大友側肥後国人衆が島津と戦をして大敗した。
  これで島津はいやでも戦わないといけなくなった。
  放置するならば帰る連中だったのにね」

 鍋島信生に説明しながらため息をつく。
  大軍で押し潰すことを公言しているので、それに怯えて逃げてくれるのが一番都合が良かったのである。
  だが、よりにもよって大勝してしまった事で、島津家は引くに引けなくなってしまった。
  つまり、否応でももう一戦戦わないといけない訳で。

「という訳でどうする?
  その先陣に貴方たちを私は指名するつもりだけど」

 ある意味ぶっちゃけた私は鍋島信生に話を投げやりに振るが、出てきたのは恐ろしく冷静な一言だった。

「まずは、続報を。
  その上で、判断致したく」

 ああ。
  この冷静さが竜造寺家を救ったんだな。
  きっと。

 

 それから一日後。
  かなり具体的な情報がそろってきたので、玉名の兵は志賀鑑隆に任せて四郎を償還。
  竜造寺家の兵五千を入れた一万の兵が柳川鎮台に集まっていた。
  更に数日すれば、この地に集まる将兵は三万を超えるだろう。
  玉名の兵も合流させれば四万に届くかという所か。

「白川の旦過瀬にて撤退の渡河中だった島津軍三千を城家と合志家の手勢千が襲撃。
  この背後を隈府館を捨てて島津軍に合流しようとした隈部親永の手勢千が背後から急襲。
  これによって、城家と合志家の手勢は総崩れとなって、城親冬殿及び合志親為殿が討死。
  両家の城は守れずと判断して一族は城を焼いて逃亡と」

「阿蘇家の甲斐親直が毒を飲んで倒れた事で、彼の後を狙った阿蘇家重臣高森惟直殿が木山城主木山惟久殿と津森城主光永宗甫殿を誘って、兵二千で合戦時の島津軍へ横槍を入れる。
  しかし、城家と合志家の手勢が崩れたのを見て総崩れに陥り、木山惟久殿光永宗甫殿が討死。
  高森惟直殿は手勢を失って高森城に敗走中」

 出てきた白川合戦に、私は頭を抱えざるを得ない。
  見事なまでの逐次投入であり、上級司令部が無い場合国人衆がここまで好き勝手に動くのか。
  一緒に聞いていた四郎も鍋島信生も同じように頭を抱えている。
  彼らのやらかした最大の失敗は、

『島津は負けて撤退している』

と勘違いした事に他ならない。
  実際、戦略面では島津は詰んでおり、撤退も事実だった。
  だからといって敗走している訳ではない。
  そこを落ち武者狩りに出向いて返り討ち。
  それがこの白川合戦の真相である。
  とはいえ、この大敗は肥後国人衆に激震を与えた。
  大友の動きの鈍さと島津の強さを目の当たりにして、現在の島津軍は宇土城に一万近い兵を集めているという。
  一方、阿蘇家は宇土城攻略を目指した甲斐親直が白川合戦の敗報を聞いて本拠の浜の館へ撤退。
  毒を飲んだのに無理して動いたのがたたって、精彩を欠いているという。

「姫様。
  申し訳ございませぬ。
  それがしが囲みを解いて玉名に引かなければ、隈部勢の跳梁を防げましたものを」

 四郎の謝罪を片手ではねつける。
  正直、これで四郎の責任を問うつもりはまったく無い。

「いいわよ。
  大兵で押すと決めたのは私。
  この敗北の責任も私が負います。
  いいわね」

 四郎にぴしゃりと言って、私は鍋島信生の方を向く。
  彼の欲しがっていた情報は全て与えた。
  だからこそ、彼は私に答えを言わなければならない。

「で、どうする?
  肥後一国切り取り放題の褒賞片手に先陣を切る勇気はある?」

「姫様が我らを使い潰さないのでしたら、姫様の手に勝利を捧げて見せましょう」

 言い切りやがった。
  その自信がどこから来るのか切実に知りたいものである。
  私はニヤリと笑って、鍋島信生に命じる。

「あら、私は味方である限りは見捨てないわよ。
  鍋島信生。
  島津を打ち倒しなさい」

「御意」   

 島津VS鍋島。
  戦国チートマッチが決定した瞬間である。

「竜造寺家に従属している有馬家を動かして、天草の志岐麟泉へ後詰を送るように」

「はっ」

 私は今いる他の将達に向かって告げる。
  たとえ敗北があろうとも大友は揺るがないという事を見せつける為に。

「私は玉名遊郭に本陣を置きます。
  戦の差配はこの後来る田原鑑種に任せるので、彼の命に従うように!」

 今回は私の出番はここまでだ。
  後は大人しく勝報が届く事を待つ事にしよう。
  あと、四郎が来たから、玉名まではラブラブしておこう。


……なんて考えていた私が馬鹿でした。ええ。

 
  翌朝。
  柳川沖に停泊中の珠姫丸の調教室で四郎と朝寝を楽しんでいた私にその急報が飛び込んできたのだった。

「大変です!姫様!!
  志賀鑑隆殿より早馬で、キリシタンの一揆勢数千が海岸沿いより玉名遊郭に向かっております!
  隈府も隈部親永の先導で島津軍が玉名へ!」

 どうしてこうなった???




 

 

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