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大友の姫巫女

南海死闘編

第八十二話 豊薩死闘 肥後騒乱 その一  



  隈部親永と赤星統家には因縁がある。
  元々この二家は城家とともに菊池三家老といわれ、肥後の有力国人領主や土豪領主のなかで最も有力な地位を占めていた。
  その後菊池家本家が大友家によって滅亡させられると、赤星家は菊池家の本城であった隈府城に入り、菊池氏のあとを継いだ形となったがそれを面白かろうはずがない。
  永禄二(1559)年。隈部親永は、領地問題から赤星親家と対立。
  優勢な赤星軍が攻め寄せた所、隈部軍は合瀬川にて迎撃し赤星親家を打ち破った。
  これを合瀬川合戦という。
  この合戦は大友家とその大友家と結んで影響力を強めた阿蘇家の仲介によって和議が結ばれる事になった。 
  和議内容は互いに遺恨を流して領土などに手をつけない形だったので、勝ったはずの隈部親永が遺恨を持たない訳が無い。
  まぁ、隈部の強大化を阿蘇家が許すわけが無かったので、これを主導した甲斐宗運の外交的勝利な訳だが、隈部親永は赤星家と阿蘇家に恨みを持つようになる。
  その後、赤星親家はその後死去して赤星統家に代が変わったのだが、代替わりに伴う判断の甘さに漬け込まれる。

 事の詳細はこうだ。
  阿蘇家による相良家攻めの為隈府鎮台では兵を集めており、そこに隈部親永とその兵二千が所定の行動によって到着。
  阿蘇家の兵および、玉名遊郭にいた兵が集まって相良攻めという段どりなのだが、この時点で隈部家以外の兵が来ていなかった。
  赤星統家は味方である隈部家の兵を鎮台に収容。
  基本、現地国人衆の統治拠点である城から少し離れた場所に大名直轄である鎮台は作られており、隈府もその例に漏れなかった。
  遺恨を流そうと隈部親永を城に呼び、これを隈部親永も受諾。
  そして、隈部親永の内応者によって隈府城は制圧。
  鎮台に居た兵もそのまま赤星統家の命と偽れた命令によって隈府城に移動し、城が閉じられて初めて事態に気づく始末。
  ほぼ無血のクーデターであり、同じ菊池のよしみかそれとも大友家に配慮したのか赤星統家とその一族を追放というのが現在までの流れである。
  これを就任直後で鎮台掌握ができていない斎藤鎮実が知ったのは全てが終わってからであった。
  激怒した斎藤鎮実だが、即座に城攻めに動かなかったのは、

「これは、赤星家との問題であり、介入不要。
  また、盟約どおり阿蘇家の相良家攻めには参加する所存」

 なんて鼻をくくった回答をよこした隈部親永を信用した訳ではない。
  天草志岐家の内紛や宇土城主名和顕孝の内応などと連鎖したら肥後全土に火が燃え広がるからである。
  この時点で鎮台に火でも放てば大友家の対肥後戦線が崩壊したのだが、隈部親永はここまでやっていながら大友家との決定的な対立を避けた。
  というよりも、対立すら起こしていないと思っているのだからたちが悪い。
  結果、斎藤鎮実とその手勢は道化と罵られながらも隈府鎮台にて忍耐する羽目に陥る。
  もちろん、この騒動の背後には島津義久がいる。
  ここまで島津家側の諜略が決まった理由は三つある。
  一つは櫛田崩れによる珠姫の豊後掌握のために、彼女の諜報組織である姫巫女衆や鉢屋衆を豊後へ送らなければならなかった点が一つ。
  二つ目はこれらの諜略の間者が地元国人衆の者によって伝えられた事である。
  島津の間者ならばさすがに気づくが、地元国人衆の間者だとまず見分けがつかなくなる。
  このあたりは、外の者によって間者組織を作り、数によって埋め合わせてきた珠姫の諜報組織の宿命的欠陥でもあった。
  で、最後の一つが島津家の有利ではなく、地元国人衆の利を狙った事。
  大規模治水や開墾などで大友家は大規模な飴をばら撒いていたが、双方に遺恨がある国人衆の諍いについてはやっと機能しだした九州探題の門注に任せる形になっていた。

「訴訟に訴えるぐらいなら戦をした方がはやくね?」

と、国人衆を煽った島津の作戦勝ちに大友側は序盤は後手に回らされたのだった。
  赤星統家の追放劇から四日後。 
  四郎率いる御社衆二千が隈府鎮台に到着したのはそんな状況だった。

「良く来てくださった。 
  こんな無様な姿を見せてもおめおめ生きながらえているのは、四郎殿に後を任せんとそれのみ考えておった。
  責任はそれがしが負うゆえにどうか後を頼む」

 悔しさと腹を切るつもりなのだろう四郎に引き継げる安堵感が入り混じった顔で斎藤鎮実が笑うが、四郎はそれを一顧だにしない。 
  何よりもこんな所で腹を切られて苦労するのは四郎なのである。

「簡単にお逃げになってくれますな。 
  姫様は櫛田崩れによってただでさえ信頼できる将を失っているのに、ここで腹を切られたらかえってお怒りを買いますぞ。 
  それがしも負け戦は二度体験しているのにこうしておめおめと生きながらえている次第」

 四郎の負け戦とは、南蛮人相手に後詰すらできなかった北浜夜戦と、島津家相手に伊東家を見殺しにした木崎原合戦に他ならない。 
  とはいえ、引田合戦あたりで勝ったりもしているから、四郎の評価は『毛利の御曹司』『珠姫の愛人』より警戒度の高い評価が大友家中から取られて入りする。 

「それに、此度の一件姫様はお怒りどころかお喜びになりかねませぬ」

 確信的に言ってのけた四郎の言葉に斎藤鎮実が怪訝な顔をする。
  最初に閨で聞いた四郎ですら同じ顔をしたのだから。

「姫様は、肥後を捨てるつもりでおられる」

「「は?」」

 斎藤鎮実と声が重なったのは共に迎えに来ていた赤星統家の声だ。
  四郎ですらいまだ納得していない、珠姫の対島津内線戦略をこの二人が理解するというのは少し無理というもの。

「姫様は正気……失礼」

 赤星統家があわてて口を噤むが、日向侵攻に参加していた斎藤鎮実は思い当たる節を思い出して愕然とする。
  土地に縛られる武家ならばとうてい吐けぬ妄言を姫様は堂々と公言したからだ。

「という事は、先の日向遠征において言われた『日向一国いらぬ』というのは本心か!?」

「……まごう事なき本心かと。 
  その後、戸次殿と角隈石宗殿によって改心したと思っていましたが」

 なお、日向諸将にばら撒かれた珠姫の花押入り寝返り赦免状だが、肉親の誰を失い焦土戦術まで使った島津に寝返る訳も無く、かえって大友家に対する忠誠度を高める結果になっていたり。 
  珠姫の謀略と美談扱いになっている事もついでに言っておこう。

「なるほど。
  出された兵に対して負け上等で挑んでいたのはそれか。
  だが、ここで負ければ、肥後どころか肥前の竜造寺すら騒ぎ出すぞ。
  そうなれば……」

 斎藤鎮実とて鎮台大将に抜擢されるぐらいだから馬鹿ではない。 
  正気でない珠姫が何を考えているか見抜いて顔が青ざめる。

「筑後にて島津と竜造寺を共食いさせる腹か」

 四郎が重々しく首を縦に振った。
  全部聞かされているが、だからといって納得できるものではない。

「最初はそのつもりだったのかもしれませぬ。
  ですが、日向を得た事によって状況が変わりました。
  本拠の薩摩を日向から襲われかねない状況で、島津が大兵を率いて北上はせぬと。
  そして、阿蘇家は大友家にとって大事な家ゆえに手助けの兵を出しましたが、姫の本心は相良討伐ではなく島津が阿蘇家を攻めた時の後詰なのです」

 武家にとって誰がこんなたわけた策を提示するだろう。
  一国を捨てて策を作るなんて。
  そして、それができるだけの富を珠姫は既に手中にしている。
  四郎は二人の前に、珠姫直筆の肥後の作戦地図を見せた。

「この隈府より下った所にある隈本に陣城の予定地があります。
  加判衆首座の田原鑑種様自ら差配した陣で田原坂と呼びますが、ここが島津の阻止線なのです」

 ただし、この田原坂での戦闘は後方拠点となる玉名遊郭と隈府鎮台との間に連絡線が維持される事が絶対条件となる。
  隈部親永が隈府城だけでなく隈府鎮台まで狙ったら話は違っていただろう。
  後手には回っているがまだ勝負を捨てる所ではない。

「島津がこの騒動を知ったら、この田原坂まで出てくるか?」

「悩ましい所でしょう。
  隈部親永もそれを見越して大友と決定的対立になるのを避けているふしがある。
  だからこそ、隈部親永を謀反として断罪する必要がある」

「おおっ!」

 話の流れから見捨てられそうな気配が濃厚だった赤星統家が安堵の声をあげる。
  とはいえ、隈部親永を討伐するには少しハードルが高い。

「隈部親永が隈府城に篭っているのが二千。
  領地にも同数程度の兵を残しているはすだ。
  それが後詰にくるならば四千」

 斎藤鎮実が隈部親永の確認をすると、赤星統家がこちらの戦力を口にする。

「鎮台に居るのが千。
  内訳は、我が手勢が五百で赤星殿の兵が五百。
  立花殿が引き連れて来た兵が二千あるから三千」

「玉名より兵を持ってこよう。
  とはいえ、これで相良攻めは完全に頓挫する事になるがこの状況では仕方あるまい」

 だが、勢いというものは一度つくとどこまでも転がってゆくもので、四郎や斎藤鎮実や赤星統家さえも唖然とする事態が飛び込んでくるとは思ってもいなかったのである。 
  阿蘇家の早馬が飛び込んできた時、その情報を理解したくないと三人とも心を同じくしたのだった。

「い、今、何と申された?」

「はっ。 
  阿蘇家筆頭家老甲斐宗運殿がお倒れになり出陣は中止。 
  甲斐殿は毒を盛られたらしく、盛ったのは嫡男・甲斐親英殿の奥方との事。
  甲斐宗運殿は倒れてから意識がなく、甲斐親英殿の奥方は自害。
  甲斐親英殿は阿蘇惟将様によって謹慎を命じられました」

 九州のほぼ中央に位置する阿蘇家はそれゆえに絶妙な政治バランスを求められる。
  それをひとえに支えていたのが阿蘇家筆頭家老甲斐宗運だった。
  だが、それゆえに敵だけでなく味方にも厳しく当たらねばならぬ。
  日向の伊東家に通じようとした次男・甲斐親正、三男・甲斐宣成、四男・甲斐直武を誅殺。
  弟達の死により父を排除しようとした嫡男・甲斐親英までをも手にかけようとした事があった。
  嫡男の処断は家臣のとりなしにより回避されたものの、甲斐親英の妻は実父の黒仁田親定が伊東氏への内通を疑われたただけで甲斐宗運に殺された過去を持つ。
  今回の櫛田崩れから始まった大友家の動揺に阿蘇惟種を粛清した事で、その不安と疑心暗鬼が頂点に達したのだろう。
  自らの手では殺さない誓紙を出していたので娘を使って毒を飲ませたというその凄惨さに四郎も言葉が出ない。
 
「これで、阿蘇家も終わりだな」

 赤星統家が自嘲気味に呟いた言葉は思ったより大きく聞こえたが、それは事実でもあった。
  阿蘇家は自らが主導した相良家討伐を行う事ができず、肥後国内において決定的なまでに威信が低下。
  実質的に大友家に従属する形になってしまう。
  だが、阿蘇家という隠れ蓑を取り払った事で、大友家が主導して肥後にて動ける事を意味していた。
  玉名より大津山家と城家の後詰が到着すると、即座に隈府鎮台名義で隈部親永を謀反と断罪し隈府城を攻めだす。
  これに呼応して宇土城主名和顕孝が兵をあげて八代城を落とし、天草志岐家では親子対立から合戦が発生。
  そして、この状況を見守っていた島津家もついに動く。 
  水俣を包囲し、相良家を経由して北上。 
  兵力は相良家の兵と合わせては四千。 
  大将はもちろん島津義弘である。


  こうして肥後騒乱はその幕を開けた。
  

 

 

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