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大友の姫巫女

南海死闘編

第八十一話 豊薩死闘 肥後騒乱 前夜

 この時期の肥後国国人衆の心境を一言で表すならば、

「姫様は何を考えておられるのか?」

 多分、これにつきるだろう。
  珠姫は阿蘇家支援を公言しつつ、そのくせ後詰には櫛田崩れで反珠姫的行動を取った豊後国同紋衆を送り込む事を通達している。
  しかも、この派遣が懲罰行動である旨までつけてである。 
  これならば阿蘇家切り捨てという動きに見えなくもないが、それにしては準備が整いすぎているのだ。
  こと情報に関しては、珠姫はできる限り公開する方針を徹底していた。
  それは、自分が強者である事を知っているからに他ならない。 
  相手が対応するのであって、こちらはその方針を予定どおり行動するだけの政治力軍事力財力をもっているとアピールできるからだ。
  今回、珠姫が動かす阿蘇家支援の後詰は、隈府鎮台に大野鎮台の合計一万。 
  これに、御社衆二千と立花家手勢千ばかりが手伝いに入り、阿蘇家の軍勢二千と行動を共にする予定になっている。
  一万五千。 
  珠姫の感覚からすれば、島津戦においてこれだけとは兵を死地に送るようなものである。
  とはいえ、これは阿蘇家が相良家に対する支援であり、大友家はその手伝いでしかない。 
  大友家が大友の旗を用いて島津と戦うのは、この軍勢が敗れてからと暗に言っているようなものである。
  だから、大友本軍が行動できるように肥後国では街道整備が急ピッチで進められていた。
  珠姫の本陣に指定されているのは、彼女が直轄で差配している玉名遊郭から島津迎撃の本命である田原坂までの街道整備に大量の銭と動因がかけられたのである。 
  もちろん、玉名遊郭から北である筑後への街道整備も忘れていない。
  珠姫のロジスティックスの化け物と呼ばれる所以は、兵の投入量に対して必要な物資量とその運搬手段を把握していた事にある。
  特に、筑後川を使い筑後平野の米を集めた後は整備された街道を馬車で運ぶために馬宿こみで整備し、飼葉の手配を筑後川を使って筑前や豊後からかき集めたあたりこの時代の人間と一線をかくしている。
  とはいえ、彼女にも誤算がなかった訳ではない。 
  馬というものがどれほど便利で、かつどれほど物資を食らうものかというのを彼女は情報として知って対処はしたが、情報であるがゆえに実務によって報告された飼葉の量にあっさりと悲鳴をあげた。
  筑後川という河川交通を使っていても、最後の戦線までは馬車なり荷駄頼みというのを知ってはいたがなめていた。

「とうてい足りないじゃない!」

 かくして、彼女の切り札である騎兵隊は、飼葉の不足という理由で今回の投入を見送られたのである。
  まあ、戦場に着くまでに飼葉不足で馬の半数が使い物にならないと報告をうけたらそうなる訳で。
  街道だけでなく馬宿の整備にまで踏み込んだのはこれが理由である。
  阿蘇家敗退後に出る、大友家主体の島津家との決戦に間に合わせる為に(もちろんそんな事を言うつもりはないが)、街道整備は珠姫直轄事業として行われたのである。
  その作業を指揮する玉名遊郭にて、二人の男が頭を抱えていたのだった。

「なんと厄介な……この事は甲斐殿に?」
「既に伝えている。
  向こうも頭が痛いと嘆いておった」

 汚名返上という事で、街道整備の陣頭指揮を取っていた四郎こと立花元鎮と志賀鑑隆の二人である。
  自らの手勢を率いる四郎を大将に、少数の郎党しか持って来ていない志賀鑑隆を副将に玉名遊郭に集められた人間は、街道整備の為に隈府鎮台から大津山家と城家が手伝いに来ていた。
  彼らが頭を抱えていた案件は、天草で発生した国人衆の争いに島津の関与が疑われたからに他ならない。

 何で天草が火を噴いたのか?
  天草は栖本・上津浦・大矢野・天草・志岐の五氏が天草郡を分割して天草五人衆と呼ばれた五家が栄えていた。
  なかでも、勢力を大きく伸長したのが志岐家と天草家なのだが、この二家にはキリスト教が入っていたのである。
  しかも、珠姫が弄くったキリスト教でないキリスト教の方が根付いてしまったのが話をややこしくした。
  スペインから目の敵にされている珠姫の扱いで領内が騒乱状態に陥ってしまったのである。
  志岐家は当主志岐麟泉というのだが、天草五人衆の中でも切れ者と知られているが、それが今回は悪い方に出た。
  彼は子供が居なかったので、海向こうの有馬家(竜造寺家に従属中)より養子をもらっていた。
  志岐諸経である。
  彼が敬虔なキリスト教徒だった事が事態をややこしくした。 
  志岐麟泉が大友家と深かった事もあって、珠姫を魔女と主張するキリスト教を迫害・弾圧しようとし、志岐諸経がこれに反対するというお家騒動に。 
  更に、バランスを取る為に志岐諸経の妻を島津家(島津義虎の娘)からもらっていた事が状況を更に悪化させたのである。
  大友・島津・竜造寺という三大勢力の介入にキリスト教の扱いが絡んで領内が四分五裂。
  志岐家の混乱が他の天草五人衆に広がるのにはそんなに時間がかからなかった。
  天草家は、当主天草鎮尚がキリスト教にはまっており、信者数一万二千を数える大コミュニティを作っていたから志岐諸経側を支援。
  更に、天草家は相良家と長く友好関係を築いていたが、相良家が内紛の果てに島津家に従属した結果、志岐諸経や天草家を通じて天草支配を企んでいるのは明白。
  この情報を大友側に持ち出したのは、天草家においてキリスト教布教に反対して謀反を起こし、相良家に逃げていた天草鎮尚の弟、天草刑部大輔である。
  彼はこの状況下において相良家を出奔し、四郎達にこの事を伝えた功績によって賞される事になる。
  天草五人衆残りの三家だが、一番九州に近い大矢野家は事態を静観し、三十年近く争って近年やっと和睦にこぎつけた栖本家と上津浦家は動くに動けず。

「竜造寺を使って有馬を動かすか?」

 志賀鑑隆の声に、立花元鎮が否定的に首を振った。
  彼は博多奉行時に肥前の複雑怪奇な血縁戦略を珠姫と共に見ているからその厄介さを知っていたのである。

「いや、有馬を動かすのはまずい。
  あの家は、肥前大村家や松浦家などとも深い。
  姫様は徹頭徹尾竜造寺を信用なさっては居ない」 

 今回の合戦の主軸は阿蘇家による相良家侵攻であり、天草は放置していてもさほど問題はなかったりする。
  だが、大友家による島津家との決戦を行う場合、大兵を維持するために肥後の港に大量の兵糧をおろす必要があり、その運搬を天草の水軍衆に頼む予定だったのである。
  立花元鎮は口に手を置いてうめくように言葉を吐く。

「九州探題の評定で竜造寺家を懐柔する為に姫様がかなり譲歩した結果、有馬家の従属はそのままにされている。
  竜造寺の鎖を嫌って、島津に走るという可能性も無くはない」

 こういう風に四郎が考えてしまうのも、櫛田崩れという大騒動の傷跡が深い事を物語っている。
  あきらかに大友家が動けない事を見透かしているのだ。
  悪い時には、悪い事が重なる。

「四郎様。
  隈府鎮台の斉藤様より早馬が」

 命令系統的には四郎たちは珠姫直轄で動いているので隈府鎮台とは別系統である。
  とはいえ、何かあったら一蓮托生なので四郎は先に隈府鎮台で苦闘する斎藤鎮実に挨拶をしており、何かあったら一報をと頼んでいたのだった。
  それがここにやってきたという事は、何かあったという事だ。
  覚悟を決めた四郎が隈府鎮台よりの書状を読み進めると、見る見ると顔が青くなる。

「立花殿。何があった?」

「まずい事になった。
  『肥後宇土城主名和顕孝に内応の疑いあり』。
  この書状を書いたのは肥後水俣城主鹿子木鎮有殿だ」

 書状の内容はこうだった。
  赤松太郎峠、佐敷太郎峠、津奈木太郎峠という三太郎越によって実質的な陸の孤島となっている水俣にいる鹿子木鎮有だが、その向かい側である八代群の統治も任せていた。
  これを快く思わなかったのが、宇土城主名和顕孝。
  元々名和家は八代郡が本拠で相良家との抗争に負けて宇土に逃れたという経緯を持つ。 
  その為、名和家にとって八代回復は悲願でもあったのだが、この悲願に火をつけたのが島津らしい。
  鹿子木鎮有は元々肥後の国人ゆえ名和家の事情を知っており、島津が手を伸ばすのならばここだろうとあたりをつけて間者を置いていたらしく、それに引っかかったのだ。
  相手の間者から奪った書状によると、八代郡を与える事を条件に島津家につく事を決めたと書いている。 
  北から相良家を攻める場合、八代を通らないと攻められない交通の要衝の為に信頼できる者に与えていたのだがこれが裏目になっていた。

「どうする?
  真偽を確認して……」

「確認して黒だった場合、炎が一気に肥後一円に燃え広がりますぞ。
  宇土と天草は目と鼻の先。
  姫様が意図する田原坂での戦すら行えなくなりかねん」

 四郎が正当な手段を口にしようとして、長く肥後国人衆と付き合っていた志賀鑑隆が即座に否定する。
  これも櫛田崩れの影響だろう。
  動けない事を見透かしており、その後で頭を下げればいいとたかをくくっているのだ。 
  肥後国人衆はそのあたり、珠姫の怖さを知ってはいても体感していないからこのような感じとなってしまうのも仕方ない。
  この手の謀反疑惑にはいくつか段階がある。 
  証拠を固めて、事実を公表して、そして初めて討伐の兵が出せる。 
  問題は名和家謀反という形で討伐を行った場合、確実に阿蘇家の相良家攻めに影響が出るという事だ。
  肥後国人衆は長らく大きな戦も起こっていなかったので、富も兵も余裕があった。 
  名和家の場合、篭城前提だと二千は集められる。
  攻者三倍の法則ならば、名和戦で六千は使わないといけなくなり、相良攻めなど行えない状況になってしまう。
  斎藤鎮実が早馬を送ったのはつまりそういう事だ。
  櫛田崩れで手足をもがれた志賀鑑隆に四郎という手足をつけて、対処を頼むという。
  それを四郎も志賀鑑隆も十二分に理解していた。

「阿蘇家がこの状況で相良攻めを強行するのか?」

「しないと家中がまとまらない。
  大友が大規模な後詰を出した以上なおさらだ」

 四郎に説明した志賀鑑隆が深くため息をつく。
  当主阿蘇惟将と弟惟種の真っ二つに割れてしまった阿蘇家を相良という外敵によって一本化してみせた甲斐宗運の功績は大きいが、かえって現状では足を引っ張っていた。
  全ては阿蘇家による相良家侵攻が前提になっているからだ。
  その為、本来その為に存在しているはずの隈府鎮台は、志岐家内紛や名和家謀反に対処できなくなっていた。
  とはいえ、手が無い訳ではない。
  四郎が率いる御社衆は、珠姫直轄であるがゆえに自由に動けるという利点もあったのだ。

「仕方ない。
  それがしの手勢が前に出よう。
  志賀殿は工事をお願いしたい」

「あい分かった。 
  必要ならば、大津山家と城家の兵を率いよう」

 この二家は田原鑑種の根回しと志賀鑑隆のコネによって明確に親大友家を打ち出していた。 
  その為、誰が敵か味方か分からない隈府鎮台掌握に苦闘する斎藤鎮実を楽にする為に、玉名鎮台の方に集めて何かあった時に即座に後詰に動けるようにという配慮があったのである。 
  だが、そんな配慮も吹き飛ぶ事態が肥後北部において火を噴くことになった。 
  よりにもよって隈府鎮台のある隈府にて発生した、隈部親永による赤星統家の追放劇である。 


 

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