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大友の姫巫女

南海死闘編

第七十九話 櫛田崩れ あとしまつ 

 博多中洲での珠姫襲撃事件、後に櫛田崩れと呼ばれるようになる一連の騒動は、奈多城落城による奈多政基と田原新七郎の自害によって幕を閉じる事になるが、それまでに流れた血はかなりの量になった。 
  日向三田井家の甲斐長門と甲斐右京が粛清。
  その支援に佐伯惟教が延岡鎮台の兵を率いて出張り、脅しをかける事を忘れない。
  また、他にも柴田紹安が病死との報告が柴田礼能よりもたらされる。 
  志賀親度の件と同じくどうもこいつも内通していたらしい。
  問いただすと志賀親度の件が蒸し返されるので、これを受理。
  逆に血なまぐさい粛清劇に発展したのは、志賀鑑隆の方で家臣の進忠房、荒巻信利が内通のかどで豊後南山城にて粛清。 
  この内通を密告した朝倉金隆は朝倉一玄と同じ一族でその功績をもって出世する事になる。
  また、豊後国南部の国人衆の家臣達に流行病があったらしく、二十家近くの家で病死による代替わりが行われた。 
  表向きは流行病である。ここ大事。
  そして、志賀鑑隆が粛清劇の責任をとる形で加判衆と隈府鎮台の職を辞し、騒動はあとしまつの段階に移行する。

「頭いたい……」

 今回人死に以上に責任をとる形でポストを追われた連中の後釜を探すのに頭を抱える珠です。 
  事に、私の生命線である経済方面の人材で手足となっていた四郎こと博多奉行立花元鎮と、府内で動いてもらうつもりだった評定衆の田原親賢が席をはずされたのはかなり痛い。
  まずはその後釜を埋めないと。
  で、その人事案を田原鑑種と四郎および田原親賢と相談中。

「博多奉行どうする?」

 ここで問題になるのは博多奉行で、自治都市博多の大使兼周辺の行政担当という巨万の実利を伴うポスト。
  情報収集と商人から資金を確保する為に、引退した臼杵鑑速がその席に長くついていた閣僚席でもある。
  頭は私の目の前にいる田原鑑種がやるとして、博多に常駐して動いてくれる手足の指名となる。

「ならば、朝倉一玄殿を」

 大抜擢だが、朝倉金隆経由の内通者粛清に功績があるので文句は出ないだろう。
  席は外すけど、実務は立花山城の四郎が補佐すればいいし。

「わかったわ。
  四郎。
  朝倉一玄の補佐お願いね」

「かしこまりました。姫様」

 四郎が頭を下げるのを見て、次は空いた加判衆の席を埋めないといけない。
  とはいえ、こっちは私の指名よりも豊後同紋衆の寄り合いに任せるつもりだったので、その調整も行っていた田原鑑種から次の加判衆の名前が明かされる。

「吉岡鑑興殿を。
  隈府鎮台は斎藤鎮実殿がよろしいかと」

 麟姉の旦那である。
  いずれ加判衆の席に座るだろうとは思っていたが、すんなり決まったのは田原鑑種の調整力のたまものだろう。
  そして、南部衆と呼ばれる豊後内部の同紋衆の力が決定的に弱体化したので、対島津戦正面戦力の再編に踏み込まないといけない訳で。
  その正面になる隈府鎮台に他紋衆出身の斎藤鎮実を持ってくる時点で、しばらく使い物にならないと白状しているようなものである。  

「で、南部衆だけど、どれぐらいで使い物になると思う?」

 私の質問に現在その問題に絶賛苦闘中である田原親賢が答える。
  なお、しばらく後に再興された奈多家に戻って奈多親賢と名乗るようになる。

「頭と手足双方失いましたからな。
  数年はかかるでしょう」

 南部衆を動かしていた二つの志賀家のうち、北志賀家は次期当主の内通粛清と現当主の詰め腹で動けるわけも無く、南志賀家は頭が無事だけど手足となる家臣団を粛清している。
  これを機会に志賀家統一を考えた事もあったけど、それは腹を切って所領安堵を訴えた志賀親守の願いを踏みにじる事になる。
  少なくとも、志賀家統一問題は当事者が決めるべきだろうという事で放置する事にする。 
  それよりもやらないといけない事が色々とあるのだから。

「斎藤鎮実が隈府鎮台を掌握するのにどれぐらい時間がかかると思う?」

 私の質問に三人とも黙り込むのが答えとなっており、思わず額に手をあててうめき声をあげざるを得ない。
  長く隈府鎮台大将として肥後に足を運んでいた志賀鑑隆が外れるだけでなく、隈府鎮台の支えとなっていた同盟国の阿蘇家のお家騒動で満足に戦力になると考えるのが間違っている。
  一番戦場となる現地に詳しい連中が使い物にならないという致命的な事態になっているからだ。

「もし姫様が島津との戦を望むならば、日向に舞台を移した方が良いのかも知れませぬ」

 田原鑑種の考え抜いた言葉の先に、肥後放棄という大胆なプランが提示される。
  近年相良家以外は戦火を味わっていなかった肥後国人衆はそれゆえに対島津戦において兵力の供給が期待できる。
  しかし、同時に彼ら国人衆の動向が合戦に決定的な動向を与えてしまい、島津の諜略いかんによってはひっくり返る可能性も否定できないからである。
  これに対し、島津との合戦で疲弊しきっていた日向の場合、その恨みが深い分島津につくという国人衆はあまり出ない。
  合戦における不確定要素の排除が可能なのだ。

「一度、志賀鑑隆を呼んで話を聞いた方がいいかもしれないわね。
  府内の屋敷にいるんだっけ?
  呼んでちょうだいな」

 で、彼を呼んで肥後国人衆の話を聞いたのだが、惨いどころの話ではなかった。
  淡々と朴訥に語る彼の話をまとめると、利と武と血のバトルロイヤルである。
  肥後守護菊池家は既に没落しているのだが、この家の没落によってその一族が同格に置かれてしまったがゆえに紛争が多発していたのである。
  それでも、別格であった阿蘇家が睨みをきかせ、大友家という武力があるならばまだ良かった。
  だが、今回の騒動でその二つに揺らぎが発生してしまった。
  それをおとなしく見ているとは思えないというのが志賀鑑隆の意見である。

「で、何処が暴発する?」

「赤星と隈部」

 即答で志賀鑑隆が言ってしまうぐらいこの二家は互いの仲が悪い。
  小原鑑元の乱において戦死した木野親政の遺領を巡り対立したこの二つの家は合勢川にて合戦を起こし、それに敗れた赤星家が没落するという結果に陥っている。
  赤星家側から見れば、この間のリベンジとばかりに戦を仕掛けるのは考えられない事ではない。
  逆に、これをチャンスとばかりに隈部家が赤星家を滅ぼそうと企むかもしれない。
  で、双方大友側からの報復とて、私が恐れると公言してはばからない島津に走ればいい。
  島津が後詰に来る程度の時間に耐えられる兵力を両家とも持っているのである。
  で、それに呼応する形で他家が介入する。
  鎮台で鎮圧できるかどうかの微妙な状況だった。
  黙りこんだ私と志賀鑑隆の横に居た田原鑑種が口を開いた。

「大津山家を動かしましょう。
  それがし、伝手がありますゆえに」

 肥後大津山家は小原鑑元の乱で功績があった家で、その小原鑑元を討ち取ったのがこの田原鑑種である。
  人の歴史とつながりは深いし面白い。
  それにかぶせるように志賀鑑隆も口を開く。

「城家をお使いくだされ。 
  赤星、隈部と同じく菊池の重臣で、阿蘇が動けぬとしたらこの家しかこの二家を掣肘できぬでしょう」

 隈本城主である城家は代替わりして今は城親賢が城主になっているが、先代の城親冬が出家して隠居しているので掣肘させる使者として都合がいい。
  時間は引き延ばせば引き伸ばすほど私に有利に働く。 
  その時間を稼ぐために私はこの二人の進言を採用した。

 惜しむべきは、それ以上に状況がダイレクトに動いてしまってこの献策が無駄になってしまった事なのだが。


「父上。
  どうしたんですか?
  その頭」

 府内に落ち着きが戻ったころ、臼杵に避難していた父上一行が府内城に戻ってきたのだが、父上の頭は見事なまでに毛が無かった。
  生えていないのではない。
  剃ったのである。

「何、隠居ならばふさわしく僧にでもなってみようと思ってな。
  頭を丸めたはいいが、違いはないと思え」

 この出家は私への大きな政治的支援だ。
  父上が頭を丸めた事で、明確な代替わりをアピールできて蠢動する連中を抑える事ができる。
  そして、父上が表向き一線を引いた事で、この騒動はここで終わりという明確な区別をつけられる。
  最上のタイミングで最上の札を切ってのける父上はやっぱり戦国大名なのだろう。

「ありがとうございます。
  父上」

「娘に感謝される事は何もしてないがな。
  わしが家督相続で流した血はこれより多かった。
  隠居を機にその菩提を弔おうと思ったまでの事」

 まぁ、あなた大友二階崩れから修羅道突き進んでいたじゃないですか。
  こっちも、その道が楽だとはこの騒動で思いはしましたが、まだ人の心は残しています。
  父上のおかげで。

「人とは因果なものだな。
  敵なくば身内で食い合うが、敵あれば敵に牙を向けるか。
  お前の島津嫌い、ようやく得心がいった」

 ああ。
  それを見抜きますか。父上。
  実際、島津がこの騒動の糸を引いていたのだが、糸を引いていなくても『島津の仕業』と公言するつもりだったのだ。
  強すぎる敵は敵側に味方が走ってしまう。
  弱すぎる敵は身内の掣肘にならない。
  その意味で、島津というのは本当に都合のいい敵なのだ。
  何しろ、その無敵ぶりは九州に轟いているし、実際にあっこは本当に強い。
  本気で戦いたくないぐらいに。

「で、勝てるのか?」

 戦国大名の顔で父上は尋ねた。
  だからこそ、長く長く対島津戦を考え続けた私はこう答えたのである。

「負けませぬ」

と。
  父上はふんと鼻息を鳴らして奥に戻ってゆく。
  その姿を見送ろうとして、ある事に気づいてあわてて声をかけた。

「父上。
  それで、法名は何とおっしゃるので」

 はるか昔から知っていたその名前を私は問う。
  その名前が聞けたのにうれしそうな顔をする私を少し怪訝そうな目で見ながら父上はその名前を告げた。

「瑞峰宗麟」

 こうして、父上は大友宗麟となった。
  父上にならって出家したやつは戸次鑑連をはじめ、父上の世代の家臣の多くがこれに習った。
  この父上の出家によって櫛田崩れは大友家中においては幕を閉じる事になる。

 一方、肥後相良家のお家争いは、島津派と大友派の争いの結果島津派が勝利し、当主相良頼定の阿蘇家亡命という形で決着した。
  その後相良家は佐牟田常陸介を中心に島津派が牛耳り、ついには島津軍の人吉進軍を許してしまう。
  その島津軍の大将は島津義弘。
  そして、阿蘇家は相良頼定を受け入れた以上、必然的に島津と対立する事が確定し、大友家に後詰を頼む事に。
  かくして、相良家お家騒動から、阿蘇家と相良家の対立という表看板の下で、大友と島津の対決の火蓋は切って落とされた。

 

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