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大友の姫巫女

南海死闘編

第六十一話 国という形の作り方

 次世代とすちゃらか四重奏の旅立ち


  府内の港に来ている珠でございます。
  なんでこんな場所に来ているかと申しますと、出征する大友軍の見送りです。

 平和になったのは良い事なのですが、大友軍主力がまともに戦ったのは小金原合戦が最後。
  日向遠征でも幾ばくか戦闘はあったのだけど、主力が来る前に片付いてしまったし。
  という訳で、世代交代を兼ねて若手を出征させようという意図の下、この遠征を企画していたりします。
  軍隊のジレンマなのですが、戦闘前行動(移動とか陣地設営とか)は訓練でなんとかなるのでその錬度については大友軍は現在最高レベルにあります。
  問題は戦闘時、つまり殺し合いな訳でこればっかりは実戦をさせないと分からない。
  で、実戦をさせるという事は、否応無く消耗してしまうという訳で。
  最高の兵士を用意するためには、否応無く消耗を前提にするという修羅の時代。戦国時代。
  けど、これは諸刃の剣で、経験積ませる為に修行に出したら誰も帰ってこなかったという笑えない話が。

 ……まぁ、史実の長宗我部がここ豊後がやらかしてしまった戸次川合戦の事なんですが。

 この時、長宗我部の後継者だけでなく彼を支える次世代が軒並み討死にしたあげく、後のお家騒動の種までまいちまうんだから島津本当に恐るべし。
  なお、大友家はこの時既に耳川合戦で強引に次世代に移行(やはり軒並み討死にしたともいう)して、更にその次世代まで死んでしまうという救いの無さぶりが。が。
  島津と戦うと何が一番いやかと言うと、あいつら頭だけでなく背骨まで折ってゆくから、家の建て直しが本気でできなくなるのだ。
  とはいえ、戦闘処女で島津と戦って勝てるかといえば、それは無理な話で。
  で、今回の出征である。
  小野鎮幸を大将に総勢二千人を畿内に派遣。
  彼らは今回松永久秀の下で戦わせる事になっている。
  織田家の対本願寺戦はほぼ間違いがないので、良い経験値稼ぎになってくれればという建前と、織田家が天竜川合戦で見せた火力重視傾向から下手に本願寺につくと死にかねないという本音がミックスされていたりする。
  向こうも急拡大した寄り合い所帯ゆえに、中核となる戦力を欲していたから取引成立。
  ついでに、織田信長が何か言ってきても、ボンバーマンならあしらえると信じているし。
  さて、ここにいる兵達のほとんどが同紋衆を主体とした豊後国人衆なのも、現在の実戦経験で高くなっていたのが出稼ぎに行っていた立花家という事情があるからで。
  案内と先導を兼ねて立花家からも元豊後国人衆だった雄城鎮景と寒田鎮将が率いる五百が参加する。
  という訳で、今回参加の我が大友家の次世代をご紹介しよう。

 大将 小野鎮幸

 木付鎮直 (八重姫の旦那 親父の木付鎮秀は現加判衆)
  挟間鎮秀
  田北鎮周 (政千代の旦那)
  一万田鑑実
  阿南惟勝
  朽網鎮則
  奈多鎮基
  宗像鎮連
  志賀鎮隆 (親父の志賀鑑隆は現加判衆)

 で、誰が誰だか分からない人も多いので簡単に説明をば。
  木付鎮直や田北鎮周は八重姫や政千代の旦那という事で簡単に紹介した事があるので省略。
  朽網鎮則と阿南惟勝は大友二階崩れにて粛清された入田親誠に連座して、冷遇されていた家だったりする。
  その息子である入田義実に対して私が恩赦を与えた(事になっているらしい)事で、この二家も晴れて参加して功績をあげてアピールという腹積もりらしい。
  挟間鎮秀こと挟間家は同紋衆なのだが、この挟間という文字の意味は『すきま』とか『せまいあいだ』という意味がある。
  もちろん、挟間という地名が豊後にあったからこの名前を使ったのだが、この挟間の地は大分川の中流域にあたり、ここから平野部が広がるという要所だったのである。
  だから、大神系国人衆と死闘を繰り広げていた大友家はこの地に一族を置いたという訳。
  なお、初代である挟間直重は剛の者として知られ、挾間にある積水山龍祥寺には挟間一族の墓と共に彼が担いだと言われている大石が祭られていたりする。
  さて、参加した挟間鎮秀の話だが、こんな逸話がある。
  子供時代、魚取りに来て近所の子供達も揉めた時の話、相手は年長で数も多い。
  で、子供の挟間鎮秀は一計を案じる。

「二人組になって肩車をして背をおおきく見せて大声を出すんじゃ。
  同時に、大きな石を川に投げ込め。
  そうすれば、大人が来たと思って、恐れて逃げるはずじゃ」

 この策は見事的中し、相手を追っ払う事ができたという。
  策といい、子供ながら他の子を指揮した統率力といい期待できる若武者である。
  奈多鎮基はかつて持っていた寺社奉行職(現在は田原親賢が兼務)の奪還を目指して燃えていたりする。
  父上の正室である奈多夫人を入れているので影響力は大きいはずなのだが、北浜夜戦以来家としてはどうもぱっとしていないからさもありなん。
  志賀鎮隆は現在加判衆についている志賀鑑隆の息子で、はやりあまりしゃべらない。
  親は子に似るとひそかに思ったのは内緒。
  宗像鎮連は戸次家分家筋の子で、一時戸次鑑連の養子になっていた事もある。
  戸次鎮連と言った方が分かりやすいかもしれない。
  小金原合戦の後、筑前に大領を得た戸次家は領地統治の為に旧主である宗像家の娘と戸次分家にあたる戸次鑑方が結婚する事で、宗像家として生きる事になったのである。
  とはいえ、本家と分家の繋がりはまだ消えておらす、戸次鑑連から、

「経験を積んで来い」

と参加したとか。
  一万田鑑実は一万田家の分家筋に当たる家で、一万田の伊予統治にて当主一万田親実を助けて無事に豊後に凱旋した功績も兼ねての参加である。
  何で功も兼ねてというと、彼は風流を好む文武両刀な将で、彼の屋敷にて歌会なんてものを催したりしているのだ。
  なお、この歌会には私や父上まで出たと言うのだから、豊後の武将連中で歌を読ませたら多分一番じゃないかと思っている。
  太宰府の歌会でも飛びぬけていたし。彼。
  そんな彼が畿内に行くのだから堺や京都の風流人と会ってこいと言っているような物で、私や父上なんかは彼に筆や短冊を送っていたりする。
  何か彼だけ別の経験積んでねと思う人もいるだろうが、実は彼はこの出征部隊のお目付け役でもある。
  つまり、戦闘経験なんて積まなくてもいい側の人間なんだな。これが。 
  話はそれるが、今回の参加メンバーの名前を見て気づいた事はないだろうか?
  多くのメンバーに『鎮』の文字が入っている事に。
  これは大友家の家臣操縦術の一つで、大友義鎮の『鎮』の字をあげたのである。
  これを偏諱という。
  大友家はこの偏諱で大よその世代が分かる。
  たとえば、

 戸次鑑連
  臼杵鑑速
  吉弘鑑理

 なんかの『鑑』の字は爺様にあたる大友義鑑から来ていたりする。
  一万田鑑実はこの世代、つまり爺様の世代に当たる。
  で今回の連中は父上が大友家を継いだ後で偏諱を受けているから、彼が年長者であるというのが分る。
  ちなみに、阿南惟勝の『惟』は大神系国人衆が代々受け継ぐ字で、北部九州にてあと良く出てくる『隆』たとえば竜造寺隆信や私の爺こと佐田隆居は大内義隆からもらっていたりする。
  で、爺の息子である佐田鎮綱は父上から偏諱を受けているという事は、佐田家が時を経て大内から大友についた事を端的に示しているのだ。
  漢字で世代や勢力が分るので少し覚えておくといいかもしれない。
  もっとも、偏諱で一字使用しているから名前のバリエーションが足りずに同名がごろごろと。
  閑話休題。

「姫様。
  出征前に南予についてご報告を」

 一万田鑑実の困りきった顔に私も苦笑せざるを得ない。
  ある程度の報告は先に来ていたからだ。

「旧西園寺の国衆からは『出て行かないでくれ』と嘆願が」

「南予国人衆がいやがるかぁ。
  さすがにそこまでは考えが及ばなかったわ」

 私は戦線の整理を目的に、南予の放棄を推進しようとしていた。
  長宗我部と南予で戦った場合、ここに後詰を送らないといけないからだ。
  現状の南伊予防衛戦力は、同盟国扱いである土佐一条領と伊予西園寺家が千づつの二千。
  これに宇和島鎮台の最大動員千五百が加わった三千五百が常駐戦力となる。
  土佐の大半を支配して、阿波・讃岐に浸透しつつある長宗我部家は総兵力で二万ほど。
  全軍侵攻は無理だとしても半分の一万は雪崩こんで来るだろう。
  そうなると、九州から後詰を送らないといけないのだが、位置的にも豊後から送らざるを得ない。
  一万の長宗我部軍を押し返すとなると一万、最低でも五千の後詰を送らないといけない訳で、それは本来想定していた対島津戦において最良の戦力が使えない事を意味する。
  元々対毛利戦における第二戦線のつもりで抑えた地なので、毛利との対決がほぼ無くなった今ではここを抱え込む必要はないと放棄を決めたのだが、これがてこずっているのだった。
  放棄するとはいえ、親大友勢力はある程度残しておきたいとは考えていた訳で。
  宇都宮豊綱に子供がいない事を良いことに、同じ宇都宮一族である豊前城井家から養子をもらおうと言う話になっていた。
  当たり前の話だが、土地には限りがある以上子供に全て平等に分配したら食べてはいけなくなる。
  だから、長子が全て相続というなのになってゆくのだが、そうなると今度は次男や三男は長男が死なないと家を継げない飼い殺しとなってしまう。
  だからこそ、養子縁組という形で居なくなった家に送り込む事が常態化するだけど、商業資本の急成長がこれに変化をもたらす。
  商人達に投資したその配当だけで食える輩が出てきだしたのだ。
  また、それに伴って商人達も武家の血を求めだし、なかなか素敵な事になっていたりする。
  私が屋敷内における自治の確立という形で武家を認めたのもそんな流れの中にある。
  これによって、彼ら次男三男も独立の道が開けられる。
  この時代、身分制度はまだ流動的なので『農家兼商人兼武士』なんてのはけっこういたりするのだ。
  で、話を城井家に戻すと、宇都宮家七万石という大領の養子だからそりゃ目の色をみんな変える訳で。
  忘れてはいけないのだが、宇都宮家にも分家筋がいる訳で。
  更に、大友家の統治が円滑に進められていた事から、旧西園寺家中から嘆願がでていたのだった。
  どどめとばかりに、城井家内部で『誰を養子に送るか』で揉めているとか。
  頭が痛い事この上ない。
  既に南伊予の統治を行っていた一万田家は多くの郎党が去り、その残務処理をしていたのが一万田鑑実だったのである。

「鎮台には宇都宮豊綱殿をつける事には皆納得したのですが、いざ戦となった時にいう事を聞くかどうかにおいては……」

「まぁ、無理でしょうね」

 放棄前提の戦線なだけに、こちらとしても後詰を送るつもりはない。
  とはいえ、まったく送らないのでは威信が下がるので養子を送る城井家郎党の千を中核に、御社衆二千をつけた三千を送る段取りを作っている。
  御社衆については豊後から送るからいいとして、豊前に領国がある城井家に事態を伝えるために佐賀関―高島―佐多岬半島―八幡浜の間に狼煙つき見張り台を設置。
  何かあったら豊後に知らせが届くようにと、ついでに豊予海峡を通る不審船に網が張れるようにしている。
  砲台を作ってもいいが、大砲の数や運搬を考えたら南蛮船に積んでいた方が便利なのだ。
  まぁ、スペインの府内ダイレクトアタックは私も怖いので別府湾には常時休憩・整備中の南蛮船が警戒してはいるのだが。

「どうする?
  貴方が望むならば、南予一万田領丸ごとあげてもいいけど?」

「それはまた、分家筋のそれがしにとっては魅力的な話ですな……」

 一万田家は豊後の本領に帰還しているが、管理していた伊予一万田領が宙に浮いているからに他ならない。
  しばらくは大友直轄領で宇都宮豊綱に管理を委託という形にするつもりではあるのだが、しばらくは問題になり続けるだろう。

「そうなると格が問題なのよねぇ」

 格、ようするに大名家内における序列の事である。
  この座屋武将の動きは二つの流れがあるのだ。
  臼杵・一万田・田原・戸次みたいに、『大名家有力一門があまりに力を持ちすぎたので、粛清を回避する為に領地を放棄する』と先に話した次男・三男独立とは視点も規模もまったく違う。
  今回の一万田領問題は前者に当たり、一万田鑑実が継いでしまうと一万田家の力の削減にならないからだ。 
  せめて、戸次がやった旧主を立てた旧家再興ぐらいしてくれる言い逃れられるのだけど。
  うん。
  これ以上考えるのはやめよう。
  多分まとまならい。

「いいわ。
  南予については後で考えるわ。
  一万田鑑実。
  お守りお願いね」

「できれば、それこそ辞退したい所なのですが……」

 私達二人が生暖かい視線を向けると、紙芝居で有名になった四人組がそこでコントを繰り広げていた。


「あたいがいたら負けないわよ!
  だって、さいきょーだもの!!」

「危ないからやめようよ。ね」

「いつかは戦場に出るとは思っておりましたが……」

「なんでぼくもついて行く羽目に……」


  元服前の初陣は基本認められないから、これを機会に勝ちも負けもしっかりと学んできて欲しいものである。
  とはいえ、堺から出すつもりは毛頭ないんだけどね。



 

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