戻る 目次 

大友の姫巫女

南海死闘編

第五十八話 国という形のつくりかた

 九州探題福岡城問注 前編


「各々方、準備はよろしい?」

 中央に居る私を前に、竜造寺家家老鍋島信生が張りのある声で答える。

「無論」

 そして、鍋島信生と対になって座る松浦家先代当主松浦隆信も同じように声を出す。

「こちらも、用意整いましてございます」

 そして、私の横に控える博多奉行立花元鎮の声でこの舞台の幕が上がる。

「ではこれより、九州探題による肥前国後藤家のお家騒動の詮議を執り行う」

 

 当たり前の話だが、問題解決の最終的手段として武力が使われている訳で、第三者機関による調停が可能ならばそれにこした事はない。
  この調停組織の名前を問注所と言う。
  このように司法機関によって天下を治めたのが鎌倉幕府であり、調停者である幕府を牛耳る北条一族が日本の権益を粗方握った事によって鎌倉幕府は滅亡を迎えるあたり色々と考えるものがあるがそれはさておき。
  さて、ここからが本題である。
  この戦国の世において、大名家による統治は必然的に司法・立法・行政の三権を大名家が握る事によって戦国大名として成り立っている。
  だが、私は父上が九州探題についている事を良い事に、あえて司法を切り離す事にする。
  この話、かなり長くなるのだが少しご容赦頂きたい。

 戦国大名といえども領地全体を統治している訳ではなく、その統治の状況には濃淡がある。
  まず、大名が直接支配をして奉行などを派遣している大名直轄領。
  次に、大名の家臣が大名から領地をもらってその中の統治は家臣が行う家臣領。
  世に言う国人衆なんてのはこの扱いである。
  後は、寺社領や町衆の自治に任せる街なんてのもあったりする訳で、すでに統治形態がこのように細分化されているのに争いなんて発生したら、大名が出張らない限りそりゃ武力解決しかない訳で。
  で、大名一人で全ての訴訟なんて処理できる訳も無いので、大名直轄地の奉行が大名に代わって訴訟を処理する事になる。
  だから、その裁判の公平性というより納得できるかにおいてはその大名家の権威や武力がものを言う。
  さて、ここから少し込み入ってくるのでついてきて頂けると幸いである。

 戦国大名が領土拡張期に入ると、親領地と共に大量の新参家臣が入ってくる。
  彼ら相手の訴訟だと、権威というより武力によってしかその裁判を納得させる力がないので、裁判官である大名家家臣に当たり前のように賄賂攻勢が行われる。
  つまり、裁判の腐敗化。
  裁判の腐敗化によって裁判の納得力が無くなり、紛争を武力で解決しようと動いてかえって大名家の威信に傷が入る。
  この戦国期にとてもよく起こった事である。
  で、それを避ける為に九州探題内に問注所を設けて司法を切り離そうとしたのである。

「大友家が九州探題についているのに、九州探題に問注所を設ける意味はなくね?」

と思ったそこの貴方。
  また長くなるのだけど、メリットを紹介してゆくので、もう少しこの長い話に付き合って頂けると幸いである。
  まず、第一に交通の便が違う。
  九州屈指の港町博多の隣に新設された福岡城に設けられた事により、府内より格段に行きやすくなっている。
  これが結構馬鹿にならない。
  何しろ、移動となると船が使えなければ歩きが基本の戦国時代。
  大友領については私ががんばって乗合馬車を普及中ではあるが、多くの人にとってはやはり歩いて博多にやってこないといけないのだ。
  次に、大友の名前を出さなくて良い所。
  裁判官が大友家だとはいえ、その判決や仲裁は九州探題という幕府公的機関から出る。
  この名前こそ大事で、大友家に従属している国人衆や寺社や町衆相手に余計な怒りを与える事はなくなるのだ。
  で、これに絡む三つ目、というか私が一番だと思っている最大のメリットは、大名家である大友家が負ける事ができるという事。
  絶対的権力は絶対的に腐敗する。
  そして、その腐敗の第一歩は己を省みない事から始まる。
  たとえ茶番だろうが、裁判の公平性というより大友家中の勢力争いに近いのだが大友側不利の判決が出せるというのは、それゆえに相互監視も絡んで大友家内部でそこそこの自浄作用を働かせるだろう。
  なお、『そこそこ』とつけているのは、最終的解決手段である武力を否定できないからで、これも戦国大名の性と諦めざるを得ない。

「此度の肥前国後藤家のお家騒動の詳細を確認したく。
  立花太宰大鑑」

 私の声に、控えていた四郎こと立花元鎮が書状を読み上げる。

「はっ。
  肥前国後藤家は……」

 長い書状なので私がかいつまんで説明する。

 肥前国。
  未来で言う所の九州にくっついている長崎県と佐賀県がくっついた国に後藤家という国人衆の家がある。
  今回、何でこの家が舞台になったかというと、まぁ口で説明するよりも地理を見てもらった方が早い。

 

地理説明


肥前国 勢力図


  松浦家

   後藤家
          竜造寺家


    大村家

      有馬家

 

 肥前国の勢力争いは、竜造寺家が佐賀平野を押さえて頭一つ飛び出ており、それを海上交易によって財を成した松浦・大村・有馬の三家が追っている形になっていた。
  で、この後藤家というのは肥前国武雄地方に根を張る国人衆の一族なんだが、この家地理的要衝である武雄地方を抑えている後藤家は松浦・大村・竜造寺の勢力争いに翻弄されることになる。
  まだ、頭に肥前守護だった少弐家がいた時期は互いに牽制しあってふらふら生き残っていたのだが、少弐家が滅亡した後に我が大友家が肥前守護職を得るにあたってバトルロイヤルが勃発する。
  大友の本国が豊後なんで訴えようにも豊後府内まで出向かねばならず、ならば現地で既成事実を積み重ねた方が有利なのだ。
  このような本社が離れているので支社が好き勝手というのは、戦国時代あちこちで起こっていたりというか戦国時代の元凶と言ってもいい。
  で、竜造寺・松浦・大村・有馬の四家バトルロイヤルだが、戦わずに済むのならばそれに越した事はないというのは竜造寺すら思っていたりする。
  そんな訳で、この争いに大村家当主である大村純忠や有馬家前当主である有馬義貞もここにやってきていたりする。
  さて、今回の話はこればっかりなのだが、この四家バトルロイヤルがまた込み入っているので少し時間を頂きたく。

 ぶっちゃけると、この四家バトルロイヤルは推理小説さながらの血縁関係と利権のしっちゃかめっちゃかでもうどろどろになっているのだった。
  私も、話を聞くだけでは飽き足らず、自ら系図を書いてやっと理解したぐらいだから推して知るべし。
  簡単にまとめると、血縁政策で養子を駆使して勢力を拡大した有馬に対して、内紛に揉める松浦、間に挟まれて右往左往の大村に、その漁夫の利を得た竜造寺という感じ。
  まず、この四家の経済的特徴を見ておこう。
  松浦・大村・有馬の三家は水軍持ち、しかも南蛮船までは持っていないが東シナ海で交易する事を前提にしている外洋水軍である。
  で、竜造寺は有力な水軍は保持していないが、筑後川河口を押さえている上に、佐賀平野からの莫大な穀物供給によって我が大友家が警戒するに値する戦力を保持している。
  肥前の経済活動は、筑後川の水運と佐賀平野の米を松浦・大村・有馬などの水軍によって博多に運び込む事によって成り立っている。
  その為、この四家のバトルロイヤルは、『海』の三家と『陸』の竜造寺、『銭』の三家と『米』の竜造寺という対立構図を抱えているのだ。
  さて、次は語りたくも無いぐらいにどろどろの血縁関係である。
  基本は、松浦の内紛と有馬の養子政策。
  松浦家は古くは藤原純友の乱に記述があるぐらい古く、源平合戦時や元寇でもその名前を知られる北部九州の水軍(海賊)の連合体だった。
  それゆえ、多くの一族・分家を持っていたのだが、長年にわたって内紛と集合離散を繰り返していたのである。
  で、その中心になっていた松浦本家は平戸松浦家と相神浦松浦家の間で対立し続けており、肥前守護だった少弐家が健在だった時はその権威を持って辛うじて平穏が保たれていた。
  だが、少弐家が竜造寺家によって滅亡させられた事によって、箍が外れて対立が激化。
  勢力的に不利を感じていた相神浦松浦家は外部勢力を養子に迎え入れる事で、起死回生を図ったのである。
  それが有馬家である。
  有馬家より養子をもらい平戸松浦家に抵抗していた相神浦松浦家だが、永禄6年(1563)年に竜造寺の勢力拡大を危惧した有馬・大村連合軍が丹坂峠(この戦い百合野合戦なんてしゃれた名前もある)にて竜造寺軍に大敗を喫して、有馬家の勢力が失墜するとついに力尽きて平戸松浦家に降伏。
  なお、この降伏時に相神浦松浦家を継いだのは、竜造寺家から養子にやってきた龍造寺信周の三男だったという。
  ここに松浦家の内紛は終結する……だったらよかったんだけどなぁ……
  松浦本家はひとまず落ち着いたが、松浦分家も同様に内紛が勃発していたのである。
  で、ここにも絡んでくる有馬と竜造寺。
  今度の舞台は肥前国日本海側で壱岐国まで絡んだ上松浦一族の中心となった波多家の内紛である。
  基本的な構図は松浦本家と同じで、お家争いで不利な勢力側が有馬家から養子をもらったはいいが負けるという形なのだが、展開は本家よりしゃれになっていなかったりする。
  本家の内紛が平戸松浦家の勝利に終わった翌年、波多家でお家争いが勃発。
  有馬から来た養子藤童丸は居城岸岳城を追われたのだが、反対派が専横を働くに及んで、永禄12年(1569)年に再度クーデターが勃発。
  今度は反対派が壱岐に逃亡して藤童丸が岸岳城に返り咲くというカムバック劇が。
  で、このカムバック劇を背後から演出したのが、有馬と龍造寺だったという。
  お前らどういう背景でつるんだよ。おい。と調べてみたら、丹坂峠合戦で有馬は竜造寺に従属していたらしい。
  もちろん、内心裏切る気満々だからこんな所にまで騒動が持ってこられるんだろうけど。
  なお、既に大友家の影響力が北部九州では絶対的に強くなっていたこの頃、藤童丸は大友に媚を売るために父上から一文字もらって元服。
  波多鎮と名乗って波多家を継ぐ事になるのだが、壱岐に逃げた反対派(日高喜)はそのまま壱岐を制圧してしてしまい、波多から独立して松浦隆信の家臣となる事で決着する。
  既にこの時点で頭が痛い事この上ないのだが、まだ話は半分も終わっていなかったりする。

 

松浦家内紛関係図


  相神浦松浦家       有馬家・大村家(丹坂峠合戦にて大敗) 

   ×              ×

 平戸松浦家        竜造寺家(相神浦松浦家に龍造寺信周の三男を養子を出す)
  (当主 松浦隆信)

 

 波多鎮(藤童丸 有馬からの養子) 竜造寺家・有馬家(竜造寺家に従属中) 

  ×

 日高喜(養子反対派)       松浦家 

 


  さて、今度は今までちょこっとしか出ていない大村家の話をしよう。
  大村家はその位置関係上から、有馬・竜造寺・松浦と陸路ならば必ず狙われる場所に位置し、自勢力も他勢力を押し返すほど強力ではないので、その外交方針は右往左往という状況だったりする。
  そして、ここでも出てくる有馬の養子とお家争い。肥前はこんなのばっかりである。
  隣接する有馬家の影響を受けた結果、大村家を継いだのは有馬晴純の子純忠で大村純忠と名乗る事になるのだが、大村家先代の実子が居た事から話がややこしくなる。
  又八郎と呼ばれた子は有馬晴純の仲介によって後藤家に養子に出される事になり、後に後藤貴明と名乗る事になる。

 そう。
  やっとこの話の本題である後藤家にこれで移れるのだ。
  いや、本当に長かった……


大村家および後藤家および有馬家家計図

 

【後藤家】

         ――後藤貴明 (後藤家養子)
         |
         |
【大村家】  |
         |
  大村純前―

      
          ――大村純忠 (大村家養子)
         |
         |
【有馬家】  |
         |
         |――有馬義貞――――――――――――有馬義純 (若くして死去)
  有馬晴純―|                                                 |
         |                                           |
         |――千々石直員 (千々石家養子)   |――有馬晴信 (現有馬家当主 竜造寺家に従属中)
         |                       |
         |                       |
         ――松浦盛  (相神浦松浦家養子)  ――波多鎮  (波多家養子)
 


  実子なのに大村家を継げなかった後藤貴明は当たり前のように大村家と有馬家を恨んだ。
  また、大村家中にも大村純忠が大村家を継ぐ事に反対する勢力がおり、内部で燻っていたのである。
  そんな反対派に火をつける出来事が勃発する。
  大村純忠のキリスト教入信である。
  永録6(1563)年、有馬・大村連合軍が丹坂峠にて大敗。
  有馬家が竜造寺家に従属する事で、必然的に大村家も竜造寺家に従属せざるをえなくなったのである。
  ドン、ベルトラメラを称した大村純忠の真意は入信を条件とした武器の援助と南蛮貿易の積極化にあり、竜造寺隆信の勢力拡大に対抗する為には切支丹に入信する以外にないと考えたらしい。
  ところが、純忠の入信を喜ばない家臣は大挙して後藤貴明の方に寝返り、大村領であった北部波佐見、川棚、彼杵等は労せずして後藤領になってしまったのである。
  大村純忠は実家である有馬家の援軍を求めたが、よりにもよって養子に出された千々石直員が後藤貴明側について謀反。
  万策尽きた有馬家は従属していた竜造寺家に援軍を求め、後藤家の背後に兵を出す事によって後藤貴明の野望であった大村家征服は頓挫する事となった。
  ちなみに、この一連の戦役で後藤貴明が南蛮船に焼き討ちをしかけ、それがめぐりめぐって私の珠姫丸になっていたりするのだがおいといて。
  もう一つおまけに、謀反を起こした千々石直員は竜造寺軍によって滅ぼされたそうな。
  このあたりのくだりを聞いている時の私の顔は本当に青かった。
  我が大友とて史実ならばこれと似たような形で、かつ規模を数倍にした騒動が勃発していたのだから。
  話がそれたが、この一連の戦役によって竜造寺家の影響力は増大し、単独で立ち向かうには無理な状況になってきたのである。
  だが、竜造寺の快進撃も大友にというか私によって止められる。
  銭でがんじがらめに縛られた竜造寺と、海外交易と対毛利の為に強力な水軍を欲した私の資本投下で松浦・大村・有馬の三家が息を吹き返しだしたのだ。
  竜造寺ができたのは、熱心な仏教徒だった西郷純堯や深堀純賢を支援して大村純忠を狙わせたぐらいで、自前の水軍の確保に波多家や有馬家の影響力維持が精一杯。
  そんな中、緩衝地帯となっていた後藤家にて今回の事件の幕が上がる。



 

戻る 目次