戻る 目次 

大友の姫巫女

南海死闘編

第五十三話 アトラス遊戯 天竜川合戦 後編 その二


 織田信長。
  戦国の革命児とも呼ばれる彼の一番優れている所は、時代に捕らわれない柔軟性にあった。
  たとえ、それが戦略条件に強要されたとしても。
  尾張統一戦では、一族譜代を敵に回して戦った結果、能力重視で多くの英才を抜擢する事になった。
  父信秀から受け継いだ伊勢湾商業利権を維持する為に、治安の改善、街道の整備、楽市楽座という政策に踏み切った。
  そして上洛して多くの敵に囲まれると、内線戦略による防衛と、他方向同時攻撃によって敵を各個撃破に追い込んでいった。
  そんな彼が倶利伽羅峠での大敗によって主力の壊滅・再編に追い込まれた結果、その柔軟性によって更なる大輪の花を咲かせる。
  その結論を話す前に、比較対照として二人の将をあげたい。
  西国にて日向征服戦を行った大友珠の場合、『戦いは数』という原則を守りつつもその数が有効に働く事に心を砕き、戦はできるだげ前線の将に任せて自らは兵給に力を注ぎ続けた。
  現在の織田信長の相手である武田信玄の場合、『戦わずに勝つ』事を目的として諜略に力を注いだが、それゆえに敵を作り外交的失策を戦術で補うという矛盾を解消できていなかった。
  この二人実は共通点があり、両方とも決戦主義、つまり最後は合戦で決着をつけるという事を念頭に置いている事である。
  武田信玄は言わずもがな、大友珠とて合戦による終幕を前提にしていたがゆえ、日向戦時の最後で島津に確実に勝てる自信が無いと躊躇う事無く合戦を回避したのである。
  では、織田信長は主力の壊滅・再編に追い込まれた結果、何に目覚めたのか?
  それは、戦争の本質――相手の弱い所を容赦なく徹底的に叩き続ける――だった。
  つまり、彼は弱体化した自分の戦力でも戦国最強と呼ばれた武田家を相手に勝てる状況を作り出したのだから。


  織田信長は倶利伽羅峠の大敗の直後から、近隣諸大名家が弱った織田家を攻める事を十二分に理解していた。
  弱みを見せたらつけこまれるのが戦国の世というもの。
  特に武田家は、織田信長が煽ったとはいえ同盟国だった今川家を攻撃した前科があるので、最初から攻めて来る事前提で対策を練っていたのである。
  織田家と武田家を比べて、織田家が間違いなく優位に立っているのは経済力から来る動員兵力の差。
  もちろん、流れ者を中心にした雑兵ゆえまともに戦えば負ける。
  だからこそ、まともに戦わない事に頭を絞り、武田家の構造的弱点に注目する。
  甲斐・信濃を領地とする為、四方を大名家に囲まれ、山地の領地の割りに動員兵力は少なく、兵の移動に時間がかかるという弱点に。
  囲んでいるのが織田の他に徳川・北条・上杉の四家だが、徳川は同盟国ゆえひとまず除外する。
  で、二家と武田の外交関係を考えた結果、一時的妥協は成り立ったとしても、武田・上杉・北条の三国同盟は成立しないと確信する。
  双方が公方を抱えている時点でいやでも上杉と北条は激突する宿命だし、川中島合戦を五回も繰り返した事から見て、川中島周辺は武田と上杉の恒常的問題として常にくすぶっていた。
  北条と武田が手を組んだとしても、今川攻撃による不義理から互いの利益による妥協しか残っていない。
  つまり、放置しておいてもいずれこの三家は火を噴く事が明らかであり、その応対の為に武田はいずれ軍を返さねばならないと看破したのである。
  ならば、まともに戦う必要すらない。
  織田家の中枢である美濃・尾張を守りつつ、武田が背後を突かれて帰るまで拘束すればいいのだ。
  織田信長が真に優れていたのは、この前提であえて攻勢防御に踏み切ったことである。
  山地の領地の割りに動員兵力は少なく、兵の移動に時間がかかる為、相手に他方向同時攻撃で走り回らせて疲れさせようとしたのだった。
  だが、多方向同時攻撃のどれか一つでも武田軍とまともに当たれば確実に負ける。
  だからこそ、精強な三河兵を抱える徳川家という同盟国の存在に着目し、万一武田軍と戦う事になっても、それは徳川軍にしてもらう事にしたのだった。
  織田信長の柔軟性は、徳川家に血を流させる為に徳川家に大規模な支援を行った事にもあげられる。
  銭や米の援助だけでなく、大井川合戦時には水軍による兵の搬送を行って後詰を行い、今回の合戦前にはスペイン船から購入した大筒を二門譲渡までしている。
  ここまで義と利に縛られた状況で、徳川家が武田側に走る事はできなくなっていた。
  そして、大井川合戦にて武田家の矛先が織田・徳川に向けられている事を知ると、織田信長は徳川家康に駿河侵攻を提案。
  もちろん、今川氏真を徳川家康が抱え込んでいる事を知った上での提案である。
  これに水軍衆による支援に、今川氏真につける兵まで約束した時はただの囮としてしか認識していなかった。
  これに徳川信康をつけて今川旧臣をかき集めさせたのは徳川家康のアイデアなのだがそれはひとまずおいておく。 
  この時点で武田軍が駿河からくるか、信濃から来るかを織田信長はまだ特定できていなかった。
  だから、赦免状という餌で武田軍を信濃から来るように誘導したのである。
  美濃・三河・遠江の山地の国人衆寝返りを確定させる為には武田本軍の後詰が絶対に必要だからで、武田軍は戦わずして領地を広げられた事で否応無く戦略的自由度を失ったのに気づかない。
  ここまで用意して織田信長は本拠地である岐阜に四万もの大軍を集める。
  そして、岐阜にやってきた羽柴秀吉に木曾攻めを、明智光秀には岩村城後詰を命じる。 
  駿河侵攻を決意した徳川軍と合わせて、これで武田家に対する他方向同時攻撃の準備は整った。
  全ての攻撃が攻勢防御前提の囮である為に、躊躇う事無く織田信長は武田軍が出てきたら後退する事を厳命した。
  この時点では信濃の山野にて武田軍を走らせて消耗させる事しか考えておらず、武田軍の撃破はいずれ背後を襲うであろう上杉か北条にまかせるつもりだったのである。
  だが、駿河に攻め込んだ徳川軍の快進撃が織田信長の誤算となった。
  織田信長も大筒の破壊力は聞いてはいたが、その実戦の威力を読み誤っていたのである。
  日本で大筒の使用が少なかったのは、山野の多い地形で山城が多い日本ではその運搬に支障がでる事が最大の理由である。
  だが、海という連絡線があり海岸線という平野が広がる駿河において、大筒はその破壊力を十二分に発揮したのである。
  おまけに、今川氏真という旗印に徳川信康という実戦力をつけた結果今川旧臣を取り込んだ徳川軍が膨張して、駿河の武田支配を崩壊させるという事態に発展すると織田信長は内心頭を抱えざるをえなかった。
  山野を走って疲れさせるはずの武田軍という獣が手負いの獣に化けたからに他ならない。
  つまり、武田軍はいやでも徳川軍に合戦をしなければならない状況に追い込まれでしまい、徳川の滅亡を避ける為にもその後詰に全力を注がねばならなかったのである。
  ここで、羽柴秀吉と明智光秀が予想外の動きで織田信長の危機を救った。
  大友家との取次ぎを自認していた羽柴秀吉は、それゆえ西国での合戦を先に調べており、己が囮であるがゆえに大友家の敵である島津家が使った偽旗戦術を大規模に使用して木曾義昌を騙したのである。
  彼はこの辺りに詳しい蜂須賀正勝を使い野武士達に羽柴の旗を背負わせて暴れさせた上で、軍主力は木曽川を下って熱田に下がり長島一向一揆を牽制した上で、海路三河に向かったのである。
  更に、武田家と戦うことで逃亡した兵達の罪を問わぬ事で再雇用し、長島一向一揆への押さえとした事で背後を気にする事無く織田信長はその全軍を三河に向けられたのだった。
  明智光秀も負けてはいない。
  元がこの地の出身だったらしい明智光秀はこのあたりの国人衆に知り合いも多く、諜略で寝返った国人衆を再度寝返らせて明智の旗をつけさせて暴れさせて明智軍そのものは岐阜から動かさなかったのだ。
  この二将がこんな事を行ったのも自らが囮であるという織田信長の明確な方針があったからで、織田の旗をつけているならば囮には問題が無いと割り切っていたからに他ならなず、それを織田信長も追認したからである。
  更に、この二将は海路が使える事による情報伝達の早さを認識しつくしており、駿河田中城が徳川軍の大筒で崩壊した時に徳川の攻勢が囮で終わらない事を確信し、久能山城が南蛮船の砲撃で崩壊した時には織田信長が徳川に後詰に出る事を察知してその準備を整えていたのだから恐れ入る。
  一万の押さえを残して後詰に出陣した織田軍三万のこれがからくりだった。
  この二将の働きに滝川一益も負けてはいない。
  九鬼水軍や南蛮船を使って兵を遠江に送り出し、水軍を用いた連絡線を維持に奔走し、徳川軍から要請の出た久能山城砲撃の調整を行ったのも彼だったのである。
  だが何よりも彼が果たした最大の功績は、これだけの大軍勢の維持に伴う銭の確保に成功した事に他ならない。
  この時期、日本の商業は大名・公家・寺社によって独占状態を認められていた座に連なっていた大商人と、西国流通圏によって発生した商人達の出資連合体である座屋に二分されていた。
  それが比叡山延暦寺焼き討ちで多くの商人が没落した結果、座屋を背景にした振興商人が急成長を遂げていたのである。
  彼ら新興商人達は若狭湾の利権と琵琶湖水運を握り、それを陸路で伊勢湾海上利権と繋げた事で織田家にも莫大な富を与えたのである。
  数寄人として商人達と交流があった滝川一益は、長谷川宗仁や松井友閑、村井貞勝らと組んで新興商人達に銭を吐き出させたのである。
  吐き出させた銭の代償は、織田家による畿内における最後でかつ最大最強の旧守派商人達の座の牙城である石山本願寺の没落要求。
  石山本願寺の保障によって維持されている座が崩壊する事で、日本の最も豊かな金のなる道である淀川河川交通を欲したのである。
  武田家に引きずられて石山本願寺が蜂起する事を掴んでいた滝川一益は、この情報を流す事で織田信長が大軍勢を動かすに足りる銭を確保したのだった。
 
  かくして、織田信長自らが率いる三万の織田軍は、佐久間信盛の押さえに残して羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益などの将を連れて遠江国浜松城に到着する。
  徳川軍と合わせて四万もの兵がこの地に集まっている事になるのだが、織田信長は己が連れてきた軍勢が張子の虎である事を熟知していた。
  既に武田軍は青崩峠を越えて二俣城に猛攻をしかけており、早急に後詰を必要としていた。


地理説明


白 武田
黒 織田・徳川

 

              |
               |
               凸飯田城
               |
   ▲           |
  岩村城          |
              青崩峠 
               |   ▲犬居城
               |
        ▲      ▲二俣城
       長篠城     |
               |
               |天
               |竜   ▲掛川城
               |川
               |
            ▲  |
           浜松城


「二俣城の後詰よりも先に、犬居城に後詰を送りたく……」

 浜松城の広間にて織田・徳川双方の将が集まった中でそう口火を切ったのは徳川家の酒井忠次。
  焦点は二俣城なのに、その背後に当たる犬居城に後詰を送るというのはどういう了見かと諸将が問いを発する前に、酒井忠次はその理由を口にした。

「犬居城に後詰を送って背後が襲われると武田が感じるならば、動揺するかと」

「窮鼠になりかねぬか?」

 今回の合戦で徳川方との連絡役も兼ねていた滝川一益がやんわりと確認するが、徳川方は二俣城が焦点になった時点で方針を固めていたらしく、酒井忠次は淀みなくその質問に答えた。

「犬居城は街道から離れており、さりとて放置するには距離が近い城。
  なにより、この城が徳川方で踏ん張っているおかげで、掛川城の方に武田軍が踏み込めませぬ」

 徳川家にとっては、犬居城から掛川城経由で南下されてそのまま駿河に帰られるのを一番に恐れたのだった。
  また、犬居城で踏ん張っている天野景貫は今川旧臣でもある故に、後詰を送って支援を表明しないとせっかく寝返った今川旧臣に動揺が走って、武田信玄につけこまれる可能性があった。

「後詰にはそれがしと石川家成、武田より降った岡部正綱らを含めて三千ほどで出る予定でございます。
  織田殿におかれましては、この後詰に幾ばくかの備えをつけて頂けたらと」

 その返事を織田信長がする前に、織田軍の将の中から大声があがる。

「よろしければそれがしにその備えを任せてもらいたく」

「控えろ!利益!
  大殿の御前ぞ!」

 滝川家一門衆の席から立ち上がった前田利益を滝川一益が叱責するが、それを織田信長が手によって黙らせる。
  倶利伽羅峠合戦の後、織田信長は壊滅した織田軍再編に向けて馬廻衆から大量に将として抜擢した。
  この場にいて信長直属軍に属する前田利家や佐々成政や堀秀政などはこの部類に入る。
  とはいえ、将を用意したとはいえその家臣団形成まで手が回る訳もなく、彼らが率いる兵は急遽徴兵した雑兵ばかりで最大の懸念となっていたのである。
  これとは違い、同じ馬廻衆だった前田利益は別の道をたどった。
  倶利伽羅峠合戦時に無傷だったが故に、主力となる事を位置づけられた滝川隊に将として請われたのである。
  この合戦において滝川一益が率いる部隊は、隊としての行動が取れる数少ない部隊(後は朝倉旧臣を組み込んだ明智隊と倶利伽羅峠不参加だった羽柴隊や水野信元隊など)だったのである。
  それゆえ、滝川一益の部隊は織田軍の中核として位置づけられて大量の兵が送り込まれ、率いる兵は一万と織田信長直属をのぞけば最大をほこっていた。
  だが、膨れ上がった兵力を指揮する前線指揮官である足軽大将が足りる訳もなく、彼は一人でも多くの足軽大将を欲した。
  粛清された北畠家より吉田兼房などの旧北畠家臣を雇い入れたり、倶利伽羅峠合戦で失脚しかかっていた柴田勝家を陰から助けて可児吉長を手に入れたのもその流れにある。
  こうして、前線指揮官はなんとかなったのだが、こんどは上級指揮官である侍大将の不足に頭を痛める。
  複数部隊の指揮を取る侍大将ともなると一門や譜代で固めるのが当たり前なのだが、各地を流れて織田家に仕えた滝川一益には譜代がいなかったのである。
  長男である滝川一忠に任せるには少し若く、経験を積んで将に抜擢されると評判だった前田利益に滝川一益が目をつけたのは当然といえよう。
  前田利益の父親は滝川家の一族であり、前田利久の養子となっていたのだが、前田家は前田利家が家督を継ぐにあたって前田利久および利益の処遇に問題を抱えていた。
  滝川一益は彼らを引き取る事で前田利家に恩を売るだけでなく、優秀な侍大将を手に入れたのだった。
  ただし、この前田利益が優秀な将であると同時に性格に難があるかぶき者である事をのぞけば。

「大殿が進める戦は面白くない」

 島津家久から聞き、フランシスコ・カブラルより詳細を聞き出して導入を目指した南蛮人の戦陣であるテルシオについて、前田利益はこう斬って捨てた。
  まぁ、この戦陣だと馬廻衆時代のような個人の武勇なんて発揮できる訳がないから当然なのだが、このテルシオが組めるたげの練度と士気を持っているのが織田軍では滝川隊の他は明智隊と羽柴隊と水野隊ぐらいしかないのだから。
  とはいえ、かぶき者である前田利益とて現在の織田軍が抱える練度と士気の低下から来る部隊行動の齟齬は認識しているので、面白くはないながらもその指揮に従っていたのである。
  だが、徳川家から提示された犬居城後詰は武田軍を追い払う事を目的とする合戦になる。
  ならば、足が致命的に遅いテルシオなんて組める訳もなく、従来の合戦にならざるを得ないと見込んでの志願である。

「許す。
  ただし滝川から兵を連れてゆくな。
  己の手勢の他に堀秀政をつける」

「はっ」

 織田信長の一声で徳川側からと滝川一益から安堵の笑みを漏らす。
  こうして、犬居城の後詰として四千が分派される事が決まった上で、本題である二俣城後詰の話が行われた。
  この時の織田信長ははなから合戦にて勝敗をつける事は放棄しているので、対陣した時に考えるのは負けない事のみ。
  それゆえに、島津家久から聞いた南蛮人の戦陣であるテルシオを知った織田信長は、その先にたどり着く。
  テルシオの本質は足軽によって構成される動く城である。
  とはいえ、その陣の運用には当然の事ながら錬度と士気が必要であり、今の織田軍では半数近い部隊がこのテルシオすら組む事ができなかったのである。
  ならば、動く城ではなく決戦地に城を作ってしまって、そこに篭ってしまえばいいと。
  多方面同時攻撃と同じぐらい織田軍の特徴になる、野戦火力陣地築城のこれが最初である。
  武田軍に対峙する為でなく、脆弱な味方が逃げ出さない為の野戦築城。
  後に合戦の詳報を知った大友珠の言葉に全てが現れていた。

「……これ、塹壕戦じゃねーか……」


 

戻る 目次