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大友の姫巫女

南海死闘編

第五十二話 アトラス遊戯 天竜川合戦 後編 その一



地理説明


白 武田
黒 織田・徳川

 

              |
               |
               凸飯田城
               |
   ▲           |
  岩村城          |
              青崩峠 
               |   ▲犬居城
               |
        ▲      ▲二俣城
       長篠城     |
               |
               |天
               |竜
               |川
               |
            ▲  |
           浜松城

 


  武田軍二万四千は青崩峠を越えて遠江に雪崩れ込むと、兵三千を裂いて天野景貫が篭る犬居城を囲ませる。
  二俣城を攻める時に背後に当たるこの城から攻撃を受けてはたまらないとはいえ、これで武田軍は二万一千にまで落ち込む事になる。
  守るは中根正照率いる城兵二千。
  天竜川に囲まれた堅城だが、ここを落とさねば遠江に雪崩れ込めない以上力攻めをするしかない。
  攻めてに名乗り出たのは諏訪勝頼。
  次期後継者としての器を見せようと勇んで兵を進めていた。

「一当てするぞ。
  相手の出方を見た上で、一気に落とす」

 武田軍が攻撃準備を終えて、武田信玄が伝令に伝えようとした時、轟音と共に武田軍の一角が人共々吹き飛ぶ。
  続けざまに山々に轟く轟音に、攻め手が混乱している悲鳴が混じり、武田軍本陣も否応なく事態を把握したのである。

「何事だ!」 

「城からの攻撃です!
  突然光ったと思ったら……」

 慌てて物見から戻った伝令が真っ青になってその報告を告げる。
  武田信玄とてそれの話を知らぬ訳ではないが、目にするのは初めてだった。

「これが……西国で猛威を振るった大筒か……」

 そして、この大筒の砲撃が合図となって、二俣城兵から鉄砲と棒火矢の雨が武田軍に降り注ぐ。
  結局、武田軍は数百名の損害を出して、攻撃前に追い払われたのである。

 

「武田軍が下がっていきます!」

 物見の報告に二俣城からは歓声が上がる。
  城将中根正照はため息をつきながらも肩の力を抜く。
  そこに、棒火矢などの指揮を取った将が入ってきて腰を下ろした。

「武田のやつらはひとまずは下がったが、またやってくるぞ。
  後、一・二度は追い払えるが、それ以上は火薬が持たぬ」

 元今川水軍の将である伊丹康直が疲れたような声で報告する。
  実際、勝手の違う戦で棒火矢や鉄砲・大筒の指揮を取ったのだから疲労が出ない訳が無い。
  水軍衆の行う船戦も基本は船を狙う為に火砲を使う訳で、今回のように面制圧射撃なんて初めてだったからである。
  木崎原合戦以降この面制圧射撃を大友家が導入すると、水軍衆を持つ大名家はこぞってそれを導入し大友家も一部家臣が反対したが珠姫がそれを押し切って隠す事無くその技術を提供していたのだ。
  もちろんそれには裏がある。
  長い間姫巫女衆という防諜組織を率いていた珠姫にとって、情報なんてものは漏れるものだと割り切っていたのと、この面制圧射撃の概念を普及させる事で大名ならぬ小名の退場を促していたからだ。
  面制圧射撃というのは、狙撃と違い桁外れに火薬を使う。
  つまり、それに耐え切れる経済力を持つ家でないと導入ができないのだ。
  なお、木崎原合戦とそれに続く日向戦において使用された火薬量について、大友家勘定奉行として兵給に参加していた朝倉一玄がこんな言葉を彼の上司に吐いている。

「一年かけて溜めた火薬が一合戦で消えやがった……」

 それを聞いた上司である某姫も紙に書かれた数字――弾薬使用量とその予測――に真っ青になって停戦を決意したとか何とか。
  買えばいいとたかをくくっていた某姫も、大陸や南蛮からの買い付けにかかる時間と大規模合戦における弾薬使用量の増大を読み間違えていたのである。
  もちろん、国内生産で追いつける訳が無い。
  そんな経験があるから、みんな同じ目にあってもらおうと仲間を探しに走った訳ではないと思う。多分。
  なお、大友家からの技術支援で真っ先に導入した毛利軍は、瀬戸内水軍という国内最大最強の火器集団を抱えながら想定される火薬消費量に目を丸くし、吉川元春と小早川隆景が頭を抱えていたとかなんとか。
  話がそれたが、伊丹康直の懸念もそこにあった。
  当たり前の話だが、概念を知ったとしても実際にやってみないと分らないからだ。
  事実、先の合戦でも本来ならばもっと引き付けての攻撃だったのに、恐怖から先走ってしまい武田軍に打撃を与え損なっていた。
  計画通りだったならば、武田軍の損害は千を超えていただろう。
  ちなみに、この大筒は織田家から贈与された二門のうちの一門で、スペイン船からおろされたカノン砲である。
  あと一門は今川軍と名乗っている徳川軍と共に駿河侵攻に用いられており、猛威を振るっていた。

「構わぬよ。
  殿の言葉は『武田が攻めてきたら一月持ちこたえよ』だ。
  それまでに後詰が来るのだろうよ」

 わざと空元気を振り絞って中根正照は皆に聞こえるように、声を明るく大声で後詰の存在を言いふらす。
  人間、希望が見えるならば結構耐えれるからである。
  それに合わせて伊丹康直も明るい声で答えた。

「できれば、今川の名を継ぐ若様と共に戦いたいものだ」

 若様。
  つまり、徳川信康こそ今回の戦の鍵だったのだ。
  徳川家康は今川から独立した後、今川の影響力排除に努めてきたが、武田を相手に否応無く己が持つ権威の低さを思い知らされていたのである。
  織田信長がそうなのだが、なまじ実力があるから敵対勢力の排除に困らず、排除できぬ敵対勢力が出現した時に日和見を決め込んでいた国人衆は権威のある方を選んでしまい、それが更に苦戦に繋がっていたのである。
  徳川家康はそんな織田信長の苦戦をしっかりと見ており、武田との対立が始まるとその二の舞を避ける為にかつての主君であった今川氏真に着目し保護したのである。
  既に今川水軍衆は織田の利によって流れ、今川氏真を保護した権威が遠江国人衆の動揺を抑えた事で、大井川での武田との対陣に持ち込めたという経緯がある。
  そして、今川氏真という権威が使えるという事が分った徳川家康は更に踏み込んだ手を打つ。
  嫡男信康を今川氏真の養子にという噂を流したのである。
  何しろ、西国には大大名大内家の名を継いだ毛利家なんて成り上がりの例もあるだけに、この効果はてきめんだった。
  信康の母は築山御前で今川一族であり、今川の名前を継ぐに相応しい資格を十分に持っていたからである。
  これに旧今川家家臣団は飛びついた。
  徳川についても外様として冷遇されるかもという危惧が消え、今川家の後継として徳川家が位置づけられたら彼らも譜代の門戸が開くからだ。
  なお、徳川家康の狡猾な所は、この話があくまで『噂』という形にして必要ならば反故にできる体裁を作っておきながら、築山御前をはじめとした今川人脈がこの噂を流す分には黙認していた所にある。
  徳川家康がこんな二枚舌が使えるのも三河一向一揆などで家臣団の掌握に成功していたからで、織田から流れた銭と共に旧今川家臣の切り崩していったのである。
  伊丹康直がこんな所で疲れた顔を晒すのもそこに理由があった。
  既に海上交通利権という概念を今川水軍もはやくから認識しており、西国の巨大流通圏ができあがってからは更にその傾向が強まっていた。
  だから、武田につくなど論外で、北条か織田にという選択となり、岡部貞綱など多くの今川水軍が織田に流れていったのである。
  だが、伊丹康直は摂津伊丹城主の伊丹氏の一族であり、伊丹家没落のどどめとなった織田信長に対して好印象を持っていなかったのである。
  流れてきた伊丹家一族や家臣を自らの家臣に組み込んだのもあるが、こんな背景から織田家に流れるわけにはいかず、さりとて織田家が持っている伊勢湾海上利権には食い込みたい訳で。
  かくして、彼が門を叩いたのは徳川だった。
  徳川家康も自前の水軍衆育成は課題としてあがっていた事もあって、彼を厚遇。
  最重要拠点である二俣城に火器運用のスペシャリストとして送り込まれたという訳だ。

「で、若様はどこまで進んでいたかの?」

 中根正照は東の空を見ながら伊丹康直に尋ね、彼は城に篭る前の話を思い出して告げる。

「今川館は取り返したと聞く。
  後は江尻という所か」

 武田軍の侵攻前までこの今川軍(と名乗っている徳川軍)の大戦果は大々的に領内に広められていた。
  大筒の破壊力はすさまじく、田中城はその砲撃で陥落。
  圧巻だったのが久能山城で、水軍の監視と駿河防衛のために武田軍が手がけたこの城は、海沿いにあった事から織田信長の要請でスペイン船からの砲撃を受けて一刻と持たずに崩壊。
  落城後に捕虜となった武田軍が幽鬼のごとく形相で恐れて助けを求めるなどの姿が駿河湾一帯に伝わるに及んで、武田軍の駿河支配崩壊の象徴となってしまったのである。
  かくして、夜盗や盗賊の寄せ集めに足軽崩れの吹き溜まりをかき集めたにすぎなかった今川軍は膨張する。
  まともに戦えるのは旗頭として送り込んだ徳川信康と傅役の平岩親吉が率いる一隊に、今川時代に掛川城主だった朝比奈泰朝とその一族ぐらいしかなかったのだが、久能山城落城が伝わると勝ち馬に乗ろうと今川旧臣が群がり万に届くかという所にまで膨れ上がったのである。
  もちろん、武田とて手をこまねいてみていた訳ではない。
  駿河先手衆と呼ばれる今川旧臣でまとめられた守備部隊を用意しており、岡部正綱や朝比奈信置らが懸命に抗戦して武田主力が帰ってくるまでの時間を稼ごうとしたのである。
  だが、それも無駄だった。

「武田の主力は何処にいる?
  信濃国伊奈の山の中ではないか。
  駿河に戻ってきた時には、駿河は武田のものでは無くなっているぞ!」

 先に国人衆達に出した寝返り赦免状の結果、国人衆が動揺して多くの国人衆が武田側に流れたが、その結果として織田・徳川(今川)連合軍は武田軍主力の位置をほぼ断定していたのである。
  なぜならば、寝返りなんて一大事はいやでも武田信玄の元に上げて裁可を得ねばならないし、それが勝手に裁可されるようでは武田信玄のカリスマなど形成されないからだ。
  かくして、国人衆の使者は当然のように軍を率いていた武田信玄の元に通される。
  この時点で武田軍は情報戦に負けていたと言えよう。
  武田側が、

「山県・穴山が後詰として駿河にやってくるぞ!」

 と、罵っても今川方はせせら笑うのみだった。

「武田最強の部隊がこっちにこれるのならばな」

 そして、武田側がそのせせら笑いを理解できない所に、この戦の本質が隠されているなど知る訳も無く。
  海上交通路が持つ情報伝達のえぐさを武田信玄が思い知るのは、伝令が山野を駆けて伝えるまでまだ少しの時が必要だったのである。

 

 二俣城を囲んでいた武田軍にその急報が伝えられたのは、二俣城へ最初の攻撃から二週間が経った所だった。

「なんだと!」

 諸将がうろたえる中、武田信玄のみがうろたえる事無く、伝令の話を促した。
  何頭も馬を潰してきた伝令は汗をぬぐい息を整える事無く、その急報を繰り返した。

「はっ。
  木曽義昌殿より急報!
  木曽に織田軍が侵攻!
  羽柴秀吉を総大将にその数は万を超えると!
  更に、伊奈に下がった秋山信友殿よりも、織田軍が岩村城後詰に出陣!
  明智光秀を総大将にこちらも万を超えるとの事!
  三河にも動きがあり、奥三河出兵の為に石川数政が岡崎城を出たと!」

 もはや織田信長のお家芸とも言えるようになってきた、他方向同時攻撃がここで炸裂した。
  分かっていたとはいえ、武田信玄は関心せざるを得ない。
  何処にも後詰に行けぬこの時を見計らっての同時攻撃。
  木曽谷は険しい地形ゆえ陽動。
  岩村城と奥三河も元は織田・徳川の土地ゆえどうにでもなる。
  だが、駿河はここにこの報告が届く前に話が広がっているだろう。
  その予感は的中した。
  最悪の報告と共に。

「駿河後詰に赴いた穴山・山県殿より急報!
  葛山氏元が今川方に内応!
  江尻城落城!
  駿河先手衆はもはや総崩れとの事!」

 ここに、武田家の駿河支配は完全に崩壊した。
  穴山・山県両将は駿河に着くと即座に今川軍に攻撃をしかけるが、夜盗や浪人崩れの足軽達を蹴散らすのみで、組織的行動が取れる今川軍は戦う事無く後退。
  そこに、この多方面同時攻撃が伝わって、武田主力が後詰にこないと判断した葛山氏元が今川方に寝返って戦線は崩壊。
  江尻城は落城して、岡部正綱は降伏し朝比奈信置は切腹。
  守る物を失った穴山・山県の二部隊は、落ち武者狩りを蹴散らしながらさしたる損害も無く甲斐に帰還し、甲斐防衛に走る羽目に。
  もはや全部をひっくり返すのは二俣城を落として遠江をとった後、駿河に帰り駿河を取り返すしかない。
  それゆえ、二俣城総攻撃は激しく行われたが、その全てが二俣城守備隊の圧倒的火力に叩き返されていたのである。
  天竜川蛇行部に作られた二俣城は攻勢正面が一方向しか無く、諏訪勝頼をはじめ小山田信茂、真田昌幸・信綱兄弟と名だたる将の攻撃は全て失敗に終わり、武田軍は既に千数百もの損害を被っていたのである。
  だが、成果が無かった訳ではない。
  後半の攻撃になるにつれて、明らかに砲撃の回数が減ってきたからである。
  弾切れを恐れて使用を控えに走っている証拠である。
  次の攻め手を用意して落とすと武田信玄が更なる命を出そうとした時、ある意味彼がもっとも待ちわびた報告が飛び込んできたのである。

「浜松城の徳川家康が動きました。
  織田信長の後詰が到着!
  三万近い兵がこちらに向かっています!」
 
  この後詰を待っていたのだ。
  これを叩いてしまえば全てがひっくり返るからだ。
  大逆転の切り札が向こうから飛び込んできたと内心思いながら、武田信玄は疑心を働かす事を忘れてはいなかった。

(織田信長が岐阜に集めた兵は四万。
  一万が駿河、一万が木曾でもう一万が岩村城。
  浜松にいた徳川の軍勢は一万のはず。
  ならば、この一万は何処からやってきたのだ?)

 武田軍は二俣城に押さえとして損害が大きかった小山田信茂と真田兄弟を残して天竜川沿いを南下。
  ここに天竜川合戦と呼ばれる火と鉄の宴はその幕を開ける。



 

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