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大友の姫巫女

南海死闘編

第五十話 アトラス遊戯 天竜川合戦 前編


  甲斐武田家は何故近隣諸国に対してあのような攻撃性を持っていたのだろうか?
  それは、甲斐国の事情にある。
  山岳地帯である甲斐に本拠を持っている以上満足な食料を常に維持するだけでも一仕事だし、防御しやすい山地に基盤を持つ国人衆は個々で勢力を維持して容易に大名権を行使させなかったのだ。
  それを改めてまがりなりにも大名権を確立したのは武田信虎である。
  だが、そんな彼ですらクーデターで甲斐を追われる羽目になる。
  この甲斐追放において諸説あるのだが、重要なのは武田家譜代家臣団と武田信虎が対立していたという事実だろう。
  そんな状況で擁立された武田晴信――後の信玄――が大名権を行使できる訳がなく、彼は生涯その確立の為に戦争をし続けなければならない宿命だったと言えよう。
  そして、それは成功した。
  負ける事もあったが、武田信玄は戦に勝ち続けてその領地を広大に増やし、内政を整備して名君と慕われたのである。
  とはいえ、武田家の領国である甲斐・信濃は決して豊かとは言えぬ国であった。
  足りないならば奪えばよいが戦国時代とも言える。
  武田信玄の晩年はその全方位において北条・上杉・織田徳川と大大名に隣接しており、簡単に領地が増やせる状況ではなかった。
  そんな折、織田家が上杉輝虎相手に倶利伽羅峠で史上空前の大敗を喫したという報告が飛び込んでくる。
  当時の日本において最も豊かな濃尾平野や畿内を抱える織田家の大敗は、その領地を得るチャンスと信玄もその家臣たちも思った事だろう。
  だからこそ、織田家に嫁いだ松姫を見捨ててまでも強引に戦に持ち込んだのである。

 武田家は銭を得る為に戦を行った。
  織田家は戦の為に銭を惜しげもなく注ぎ込んだ。

 それは、中世最後の戦と称されるに相応しい伝説となったのである。

 

 遠江国大井川合戦の後詰と丹波国村雲合戦にて幾ばくかの威信を回復した織田家だが、肝心の兵の回復具合については目を覆うばかりの惨状だったのである。
  数は集まったのだけど、その集まった兵の練度となると碌なものでなく、統一運用なんてできない有様。
  そんな織田家に一人の将が挨拶に赴いた。
  京都で織田信長と謁見した将の名前は島津家久。
  九州で珠姫を翻弄し続けている島津四兄弟の一人である。
  必然的に話はその方に進み、そこで織田信長は島津家久よりこの状況改善の策を得たのであった。
  そうと決めた織田信長は速い。
  その日のうちに伝令が飛び、新たなる戦の準備に諸将は追われる事になった。

 

「兵を動かす」

 京都で島津家久の謁見を終えた織田信長の命を受けた羽柴秀吉は開口一番に家臣達に出兵を告げる。
  村雲合戦からさして時をおかずの出兵にさすがに皆顔色が変わるが、当然のように留守番になるだろう羽柴秀長はおちついて兄に尋ねた。

「どちらに?」
「そこまで分らぬ。
  だが、又左と左介も呼ばれるからこちらではないと思う」

 歯切れ悪く羽柴秀吉は答える。
  現在の織田家は最悪期を脱しつつはあったが、決して楽観できる状況ではなかったのである。
  羽柴秀吉が担当していた丹波はひとまず赤井家と和議が結ばれて双方とも内政を整えようとしており、丹羽長秀が担当する丹後は応援として送った長岡藤孝の諜略で攻略が進み、征服が終わった後に信長の直臣となって丹後一国を任される事が既に決まっていた。
  なお、長岡藤孝が丹後に移った後の芥川山城は羽柴秀長に与えられるのだが、それは少し後の話。
  問題は荒木村重の担当する播磨・摂津にあった。
  石山本願寺の監視と播磨への諜略を担当していたのだが、一向宗および毛利の影響力が強すぎて思うように浸透しきれて居なかった。
  とはいえ、彼も直臣に取り立てられるほどの将である。
  彼が得た情報で織田信長に至急と伝えられたのは、

『石山本願寺開戦を決意しつつあり』

という、とんでもないものだったのである。
  元々、織田信長と石山本願寺との間には遺恨があったりする。
  織田信長の目指す天下布武に本願寺という巨大すぎる宗教勢力は邪魔以外の何者でもなかったし、本願寺側も織田信長も加担した北陸一向一揆のジェノサイドに頭に来ていたという伏線もある。
  それがそれが今まで開戦に繋がらなかったのは主に織田側の事情による所が大きく、倶利伽羅峠の大敗で本願寺と直接対峙できるような余力がなかったという事に他ならない。
  何故この時期に本願寺側が開戦を決意したかというと、その倶利伽羅峠に理由の一端がある。
  この時に結ばれた和議で加賀は本願寺領という取り決めがあったのだが、南加賀で踏ん張っていた柴田勝家はその取り決めを無視して領地化を強行。
  本願寺側の抗議を黙殺するという事態に発展していたのだ。
  山科に築かれていた山科本願寺がほぼ完成しつつあったというのも理由の一つだろう。
  これによって織田信長の京都支配に強力な楔を打ち込めるからで、強行姿勢をとりつつ信長の譲歩を引き出そうという狙いもある。
  とはいえ、これも理由の一つでしかない。
  本願寺が開戦を決意しつつある最大の理由は、まったく別のところにあった。
  それを羽柴秀吉は家臣達が見つめる前で言う事はできなかったのである。
  戦国最強の兵を率いる武田家が織田と手切れをして、武田信玄の要請で本願寺が蜂起するという士気がどん底に落ちかねない理由を。

 予兆が無かった訳ではない。
  今川家滅亡後に徳川家とは遠江で小競り合いを繰り返しており、つい先ごろも大井川を挟んでの睨み合いで辛うじて兵を引いたばかりだったりする。
  武田信玄がこの時に兵を引いたのも背後に当たる北条家と敵対していたからなのだが、その北条家と関係が改善しつつあったのである。
  それも倶利伽羅峠で足利義輝が政治的に動いた事で関東公方を要していた北条家が上杉家に対して警戒感を持ったのが大きく、織田信長にしてみれば何処までついて回るかと罵りたくなるに違いない。
  とはいえ、北条家とて上杉家と全面対決を行うというほどではなく、病によって黄泉路に旅立った北条氏康の喪に服すという理由で中立という名の日和見を決め込んだというのが本音だったりするのだが。
  更に武田の宿敵である上杉だが、倶利伽羅峠合戦前にその足利義輝の命によって和議が結ばれている。
  つまり、武田は全力で織田・徳川に対して攻勢が取れる状況が整いつつあったのである。
  この状況を織田信長は的確に認識しており、大急ぎで兵の再編を進めると共に、大量の貢物を武田家に送って時間を稼ごうとしていた。
  とはいえ、武田信玄もさるものでその貢物を受け取っておきながら、背後に当たる石山本願寺に働きかけて織田信長を牽制しようとしていたのだから織田信長の試みは結局失敗に終わる。
  石山本願寺を率いる本願寺顕如と武田信玄は互いの嫁(三条家)を通じて義兄弟の関係にある。
  その縁と本願寺の織田信長に対する不満を巧に利用して協力をとりつけた辺り、外交では武田信玄の勝ちという所だった。
  荒木村重が掴んだのは、開戦において兵や兵糧を集める石山本願寺の準備行動である。
  それが本当ならば、本願寺の蜂起と武田の侵攻は近い。

「この山崎城には小一郎を残す。
  尼子党をつける故、うまくやってくれ」

「承知いたしました。
  で、大和の御仁はいかに?」

 羽柴秀長の問いかけに、羽柴秀吉は苦笑しつつ答えた。
  まったく、その言葉を信じてはいないという風に。

「後詰はするそうだ。
  何しろ信義を重んじるそうだからな」

 


  で、その『信義を重んじる』と羽柴秀吉に吐き捨てられた大和の御仁たる松永久秀だが、武田信玄から届いた内応の書状を見て苦笑せざるを得ない。
  多聞山城の一室にて苦笑する姿を呼ばれた本多正行は不思議そうに首をかしげざるを得ない。

「こちらにつけば伊勢志摩を与えるか……言ってくれるな」

 そう言って灯りにてその書状を燃やす松永久秀の顔には失望の色がはっきりと映っていたのだから。
  だからこそ本多正行は主君にその疑問をぶつけてみた。

「条件ならば伊勢志摩と破格なのでは?」

 松永久秀は自分と似た才能を持つこの謀将に対してあえて疑問で答えた。

「正行。
  武田が公方を擁するとして、その下に大和・河内・伊賀・伊勢とまたがっている大大名を残すと思うか?」

「……思いませぬな」

 淡々と行った松永久秀の指摘に、本多正行も苦笑せざるを得ない。
  あまりに褒章が高すぎてかえって警戒されてしまうあたり、武田信玄は松永久秀を読み違えていた。
  何しろ彼は西国十数カ国をまたにかけて諸大名・商人・寺社・朝廷・幕府・外国まで巻き込んだ総力戦をたっぷりと見ており、その洗練された戦に織田信長が叩かれる所まで見続けた奸雄である。
  あの戦に比べたらこの戦は本願寺を取り込んだ所は評価できるがそれだけの戦でしかない。
  もし、本気で松永久秀を寝返らせるならば別のものが必要なのだ。
  たとえば、毛利元就だったら将軍を動かして守護職や管領の地位ぐらい用意しただろうし、大友珠ならば堺の商人経由で商業利権を渡したり、朝廷や寺社を仲介して松永家の領地内で問題なっている荘園の権益確定問題に口を挟んだりしただろう。
  事実、どこぞの某姫から蔵一杯の銭をもらったこの奸雄は筒井家切り崩しを合戦より銭で行い、多くの寺社によって権益が複雑に入り組んでいた荘園の権益確定問題を銭によって解決(買収)した結果、筒井家は手足をもがれる形で敗北したのである。
  同時に当代きっての文化人(商人)でもあった彼は西国巨大流通圏の成立時に即座にそのビックウェーブに乗り、堺商人と懇意にしていた事もあって石高収入より流通に伴う銭収入の方が多くなっているあたり彼も座屋大名としての道を進みつつあったりする。
  一代で成り上がった松永家はそれゆえに人材の不足から領土拡張よりも円滑な統治の方に視点が移っており、現状で伊勢なんてもらっても破綻する事を松永久秀は十二分に理解してからこそ武田信玄の誘いに失望を隠せなかったのだ。

「条件次第によっては乗っても良かったのだが、これではまだ織田についた方がましよ」

 吐き捨てる松永久秀の手には織田信長からの書状二通が握られており、中身は本願寺が放棄した時に京都への後詰を頼むと記されていた文と、『南都奉行に任ずる』と書かれた足利義昭の花押入り書状である。
  南都奉行とは室町幕府の役職で東大寺と興福寺の行政をつかさどった役職でそのまま奈良の行政を司る役職である。
  とはいえ、室町幕府組織において松永久秀は既に相伴衆という管領に次ぐ席次を与えられており、南都奉行では格が落ちる。
  これは、松永久秀に南都奉行を推挙してもらうという白紙委任状なのだ。
  お飾りとはいえ幕府という公的機関の行政行使によって松永久秀の行政に正当性が与えられると同時に、己の配下でも取り込みたい武将でもいいのだが南都奉行を任せる事で松永久秀自身の求心力を高める事ができる一石二鳥の書状。
  なお、この職は寺社特権を保証する幕府の証明書を得たいと思う寺社側から金品や酒などを贈られることもあるおいしい役職である事も追記しておこう。
  飾りとはいえ足利義昭を擁している織田信長が用意した手土産に比べると、武田信玄の伊勢志摩がいかに魅力がないかわかろうというもの。
  何しろ、伊勢志摩は結局の所松永久秀自身が戦で切り取らねばならないからだ。
  たとえ武田家が織田信長を倒して京に入るとしても、そのルートは美濃・近江経由で伊勢は取り残される形になる。
  松永久秀を動かして伊勢志摩に攻め込ませようと企んだのは、伊勢志摩まで手が回らないと言っているようなものだった。

「本願寺の蜂起の時はこちらで動かすぞ。
  織田に恩を売りつつ、武田の邪魔をしない程度に踊ろうではないか」

「まるで、武田が負けると分っているような物言いですね」

 その言い草に苦笑する本多正行は三河一向一揆によって徳川家を離れた事もあって本願寺に太いパイプがある。
  本願寺に繋ぎをとりつつその情報を織田信長に流すという二枚舌をいともあっさりと言ってのけた松永久秀も本田正行と同じような顔を浮べる。

「あの尾張の小僧が勝つと踏んでいる、西国の姫君の判断を尊重しているまでよ。
  あの姫、多分こうなる事を読んでいたぞ」

 織田家の軍事行動に伴い、京都・堺・若狭の商人達から大量の物資買い付けを始めているが、そのどれからも商品の滞りがない事を松永久秀は言っているのだった。
  何よりも荷止めを行って倶利伽羅峠における織田軍大敗の間接的原因を作った珠姫が、此度の戦に置いてまだ何のリアクションを起こしていないという不自然さ。
  そればかりかかなり前から兵糧や火薬の準備をしていたらしく、暴利を貪りながら織田軍の望むがままに物資提供を行っている始末。

「これを予想して倶利伽羅峠を組んでいたとしたら、武田ごときがどうとでもなる訳なかろう」

 後世の人間から見ても、『何?このマッチポンプ?』と白い目で見られる事確定な市場操作である。
  当の本人はそこまで意図してはなかったのだが、日頃の行いは大事である。
  まぁ、前世知識で武田と織田が確実に争うだろうと確信していたので、当たらずとも遠からずではあるのだが。

 松永久秀と武田信玄が何故道を違えたのか?
  結局、そこの違いなのだろう。
  銭の権化……じゃなかった、姫の皮をかぶった商人……でもない、西国の姫君が行った『銭束で相手をぶん殴る』という資本主義に直に触れていたという点が。

 こうして織田軍は本拠地岐阜に織田信忠の初陣を祝う出陣式を名目に兵力を集める。
  羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・滝川一益・佐久間信盛という重臣を揃え、前田利家・佐々成政・野々村正成・水野信元・金森長近などの武将を集めた総兵力は四万。
  とはいえ、誰を相手にする出陣か将兵には告げられずに集められた兵は出陣式が終わった後でも止まり続けている。

「もしかして、この兵は上杉相手の兵ではないか?」

 将兵の怯えが広まりだしても織田信長は岐阜から動こうとはしなかった。
  この不可思議な動因は武田側も察知したが、上杉軍二万五千に完敗した織田軍なんぞ大した事無いと家臣の思いとは真逆に武田信玄は驕る事無く慎重に兵を動かす。
  こうして、天竜川合戦の火蓋は静かに切って落とされた。


 

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