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大友の姫巫女

南海死闘編

第四十五話 尼子の残光 村雲合戦 後編




地理説明


白 織田家
黒 赤井家

 

 ▲               
黒井城                            観音峠
                              ⑤ 
                           中山峠

            村雲     天引峠
             C  ②③   △
                       ①
                           ④
       ▲
      八上城                     凸
                             八木城

 


織田軍
  ①本陣   羽柴秀長  他        二千
  ②尼子党  山中幸盛  他       三千
  ③明智勢  真柄兄弟           二千
  ④丹羽勢  日根野弘就           千
  ⑤松永勢  福屋隆兼 内藤如安  二千

 合計                         一万

赤井軍


  C波多野勢 籾井教業  他       六千

 合計                         六千


  丹波国の合戦は『山波』の合戦でもある。
  『山波』とは文字通りの山が波のごとく続く形容詞なのだが、もう少し具体的に言うと標高数百メートルクラスの木々の茂った山々が見渡す限り続く感じが一番分かりやすいだろう。
  つまり、山々で方向感覚が狂い、道は細く待ち伏せに最適で、地元の人間なら超えられない山ではないから奇襲し放題。
  ゲリラ戦にこれでもかというぐらい理想的な戦場なのである。

「赤井勢が少し離れた所で陣を立て直しています!
  兵数は不明なれど、山に篭った足軽を見たと!」

 同じく再編中の尼子党及び明智勢の連合軍だが、井筒女之助からの報告に誰もが伏兵の存在を察知せざるを得ない。

「こんな見え見えの罠を普通張るか?兄者よ?」
「とはいえ、背後で騒がれたらちと厄介だぞ。弟者。
  兵数では向こうの方が多いと見た。
  おまけにこちらは兵に不安がある」

 真柄兄弟は殺気を纏ったままのんびりと兄弟で会話を楽しむ。
  この二人の勇者は休める時に休む事の大事さを知り抜いていたからこそだろうが、やっぱりというか『この仕事私なんだろうなぁ』とため息をつきながら井筒女之助が二人に突っ込む。

「で、戦場のど真ん中でお二方は何を読んでいらっしゃるので?」

 待っていましたとばかりにドヤ顔で二人して冊子の名前を叫ぶ。
  その漢立ちで冊子の名前を叫ぶ姿は戦場で名乗りをあげるがこどく凛々しく、そしてかっこ良かったのである。
  無駄に。

「『快楽天竺』」
「『小鬼娘揚羽』」

「今日堺から届いた故、見らずに死ぬのは惜しいのでな」
「おうとも。
  流石兄者!速飛脚を使って持ってこさせた一品よ!!」

 まぁ、名前から察しているだろうが、『快楽天竺』はエロ本である。
  それも当代きっての絵師を銭でかき集めて作った絵つき艶話衆で、現在西国(特に九州)を中心に売れに売れまくっている一冊である。
  何しろ、某大名家の性生活が赤裸々に書かれたものをネタに銭儲けに走るという前代未聞の一冊でそりゃ売れる訳で。
  なお、編集長の某大名家の姫君曰く、

「だって、新○エル先生も武○弘光先生も四万○曜太先生も天誅○先生もいないなら自分で作るしかないじゃない!」(某『円環の理』という言葉を生み出した魔法少女風に)

 なんてほざいて創刊号に己のア○顔ダブル○ースを載せていたり。
  表紙は凛々しい姿を描かせ、巻末にそれを載せるこの姫ちゃんと分かっているあたり救いが無い。
  時代が少し下がっていたら、千両箱持って長屋の鳳仙先生を専属絵師にする気満々である。
  ついでに怪しげな当て屋にとりつかれていじられる事を綺麗に忘れているのだから、抜けているというか元から狂っているというか。
  もう一冊の『小鬼娘揚羽』だが、こっちは今や戦国のモード界を突っ走る西国高級遊女必須の情報誌で、男の喜ばせ方から着物の艶の出し方や化粧のしかた、大名などの高貴な人の相手の作法など戦う遊女必須の一品となっている。
  なんでこれを真柄兄弟はじめ男が読むかというと、西国のトップクラスの遊女の体験話と同時にその遊女が何処にいるかを書いているからで、男から見ると歓楽街情報誌にもなっているからである。
  もちろん、遊郭割引券つき。

 意外に思うかもしれないが、合戦というのは思ったよりも待つ時間が多い。
  その間どうやって士気を高めるかというより、戦場の空気を途切れさせないかというのが武将の最大の仕事でもある。
  命のやり取りの最中なので休むはまだいいとして寝るのは論外。
  酒もNG、食べる分はまぁ文句は言わないのだが、これがまた緊張からか口に入らない。
  だから、やる事と言えば水分補給に水を飲むか、仲間相手に博打を打つかぐらいしかない。
  では、性欲は?
  出さなければOKだったりする。
  二十世紀も終わりにかかった頃、男性ばかりの職場に裸のおねーちゃんのカレンダーとか飾っている所があったのはご存知だろうか?
  男性の性欲の興奮は一時的な集中力を作るので、夜勤など眠気防止に張っていた所があったのである。
  それは戦場みたいにある種の気を保っていないといけない場所でも効力を発揮する。
  もちろん冊子そのものが高価な時代である、大の大人がエロ本の回し読みというなかなか頭が痛くなる光景があちこちに。
  なお、出してしまうと体が賢者時間と同時に休息モードに入るのでそんな回し読みの場で「出すんじゃねぇ!」と叱りつけるベテラン足軽の罵声が。
  戦場とは狂気の場である。
  だからこそ、刹那の夢ぐらいは見させてあげるべきなのだろう。戦力に影響が出ない限り。
  なお、戦場の狂気を生き残った後の男達のはっちゃけぶりも凄まじく、長期対陣では近くに遊女達が集まって、男と女が集うのだからと人も集まり臨時の市が立つ始末。
  人というのは、思った以上にたくましいものである。 

 完全な蛇足だが、そんなよこしま極まりない煩悩の視線(別名 死ぬ前のオ○ペット)の集中砲火を受けているのが、西国一のくノ一として『小鬼娘揚羽』から取材のオファーが来た井筒女之助だったり。
  その時、本気で背後に居るであろう某西国の姫君の首を取りに行こうとして羽柴家中に微笑ましい騒動を巻き起こしていたのだが、それは別の話。

「足軽たちが羨ましそうに見ていますから、そういうのは隠れて読んでください」

 呆れ顔で井筒女之助が窘めるが、尼子側の将は苦笑するばかりで止めようともしない。
  男だから彼らの気持ちが分かるのである。
  あれ?

「甘いな。
  男の煩悩はこう使うものよ」

 ドヤ顔のまま真柄直隆が言い放つ。
  まるで大将首でも掲げるかのように『快楽天竺』をその手に掲げ、

「此度の合戦で、大将首を持ってきた者はこの書を褒美にくれてやるぞ!!!」


「「「「「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!」」」」」


  湧き上がるときの声。
  この瞬間、足軽達の心は一つになったのである。エロで。

「な。
  男というのは単純な者でな」

 兄と同じドヤ顔で真柄直澄がいい笑顔で言ってのけた隣で、性別を無視した井筒女之助が『くノ一』としての感想を低く漏らしたのであった。

「最低……」

 最も、お遊びはここまでである。
  ときの声に反応したのか、赤井側からもときの声が上がる。

「兄者。
  向こうもやる気らしいぞ」

「みたいだな。弟者。
  仕掛けてくるぞ。尼子の衆は周囲を探ってくだされ。
  真柄兄弟!押して参る!!」

 明智勢が先頭に立って、赤井軍と槍を合わせる。
  槍合せの最中に左右の山から織田軍に向けて飛んでくる矢に怯む事無く、明智勢はがっちりと赤井軍を押さえ込む。

「横槍だぞ!兄者!」
「捨て置け!弟者!!
  今、横槍に応対したら全て崩れるぞ!」

 鬱蒼と茂った山の中から沸いて出た赤井軍の横槍に、警戒していた尼子党の横槍が入って乱戦状態になる。
  それは、この場所の赤井軍と織田軍も他の場所に駆けつけられなくなった事を意味していた。 
  そんな戦場の音に変化が生じたのは、やまびことして響いてきた別の戦場の音。

「あの方角は……観音峠の松永勢!!」

 顔色を変えた井筒女之助が叫ぶが、いくさ人の笑みを浮かべたまま山中幸盛は観音峠の方を見て言葉を漏らしたのである。

「赤井の本隊が出たな」

 と。

 

地理説明
 
  ▲               
黒井城                         A  観音峠
                              ⑤ 
                           中山峠
              
            村雲 B    天引峠
              C ③②   △
                       ①
                           ④
       ▲
      八上城                     凸
                             八木城

 


織田軍
  ①本陣   羽柴秀長  他        二千
  ②尼子党  山中幸盛  他       三千
  ③明智勢  真柄兄弟           二千
  ④丹羽勢  日根野弘就           千
  ⑤松永勢  福屋隆兼 内藤如安  二千

 合計                         一万


赤井軍
  A本隊   荻野直正             三千
  B支隊   芦田五郎             三千
  C波多野勢 籾井教業  他       六千

 合計                   一万二千
  
  赤井家は動員すれば一万近い兵を集める事ができる。
  とはいえ、その兵全てを戦場に持って行ける訳も無く、黒井城に四千の兵を残して六千でこの戦場にやってきたのである。
  同じように八上城に四千の兵を残した波多野家も六千の兵をこの戦場に用意しており、実は総兵力だけならば織田軍に勝っていたのだった。
  とはいえ、山波連なる戦場である。
  大軍が勝敗の鍵を握る訳ではない事を荻野直正はよく知っていた。
  村雲の後詰に芦田五郎率いる三千を送り、自身は三千の兵で観音峠に陣取る織田軍に襲い掛かったのである。

「防げ!防げ!!
  一歩たりとて、赤井勢を陣に近づけるな!!」

 側面を突かれる危険性を考慮して羽柴秀長は松永勢二千という少なくない兵を側面に当たる観音峠・中山峠に配備していた。
  事実、そこを攻撃されたのだから羽柴秀長の懸念は功を奏したと言えよう。
  だが、荻野直正は羽柴秀長より勝っている物が二つあった。
  一つはこの地を知り尽くしている地の利。
  もう一つは、因縁関係から来る内部事情。

「松永が手勢が相手か!
  後詰を全て中山峠の方に回せ!!」

 何しろ松永久秀の弟であり内藤如安の父でもあった内藤宗勝を討ち取ったのが荻野直正である。
  初陣であり、敵討ちの機会でもあるこの合戦に内藤如安が出ない事はありえない。
  同時に、内藤勢が初陣ゆえ大将の指揮能力に不安を抱える事を見抜いていた。
  だからこそ、躊躇う事無く街道の枝道に当たる中山峠に内藤如安がいる事を見抜き、そこを集中攻撃したのである。
  荻野直正のこの狙いは的中した。

「若を逃がせ!
  決して討ち取られさせるでないぞ!!」

 荻野直正の猛攻にあっさりと内藤如安の指揮能力は飽和をきたし、親子共々荻野直正に討ち取られる事を恐れた内藤家家中が早々に内藤如安を逃がしにかかる。
  そんな状況でたとえ峠の頂上という地理的優位を抱えていても、荻野直正の猛攻を支えられる訳がなかった。

「内藤勢が崩れるぞ!」
「我らも落ちねば挟まれる!」

 その崩壊を横目に見た福屋隆兼が指揮していた本道である観音峠の部隊も裏崩れを起こす。
  転げ落ちるように敗走する松永勢を尻目に峠の頂上にて荻野直正は足を止めて部隊を再編成させる。
  彼の視線は天引峠に鎮座して裏崩れを起こさなかった羽柴秀長隊に注がれていた。

「裏崩れを起こさなかったか。
  さて、どうしたものか……」

 松永勢を敗走させたことで、当初の目的である『赤井家ここにあり』と示す事には成功している。
  これで兵を引いた所で後の講和が不利になる事はありえない。
  だが、同時に織田軍全体を崩す絶好の機会でもある事を荻野直正は分っていたのである。
  峠の麓を見ると、後詰として控えていた織田の部隊が天引峠を登って羽柴秀長隊に合流しようとしているのが見える。
  あのまま麓に置いていたとしても、松永勢の裏崩れに巻き込まれて崩れていただろうから、いい判断と言えなくもない。
  そこまで考えていた荻野直正はある疑問に気づく。

(何で、織田軍本陣は陣を下げなかった?)

 と。
  このまま峠を下りて八木城を直撃すれば、天引峠から全てが見える織田軍は士気を完膚までに砕かれるだろう。
  その危険をあえて甘受してまで天引峠から動かないのは何故か?

(背後から突く腹か?
  いや、こちらも兵を裂くし、士気を見れば追い払う事は容易。
  ならば、動けない……か?)

 そして、やまびこになって届く村雲からの剣戟と合戦の音にその答えを見つける。
  その音はまだ死闘を続けている戦場の音である事を荻野直正は理解したのである。

「『下がれなかった』が正解か。
  峠から下れば、村雲の方で戦っている織田の先鋒は総崩れに陥るのは必定。
  内藤勢がいる以上、八木城に逃げ込むから落ちぬと判断したか。
  いい見切りよ」

 麓に出していた物見が戻ってきたのがちょうどその時だった。
  物見の報告を聞きながら、先にある八木城を睨みつけた荻野直正は即決する。

「兵を下げるぞ。
  このまま勝ち逃げさせてもらうとしよう。
  五郎にも兵を引くように伝えろ」

 荻野直正は天引峠の方も一瞬だけ見たが何も言う事無く峠を下ってゆく。
  八木城の方から崩れた松永勢とは違う織田の手勢がこっちに向かってくるのが見えていた。

 

地理説明
 
  ▲               
黒井城                      A     観音峠
                              
                           中山峠
              
            村雲 B②   天引峠
              C③     △
                     ①④
                          
       ▲                     ⑥
      八上城                     凸
                             八木城 
 


織田軍
  ①本陣   羽柴秀長  他            二千
  ②尼子党  山中幸盛  他    二千五百
  ③明智勢  真柄兄弟          千五百
  ④丹羽勢  日根野弘就              千
  ⑤松永勢                      壊走中  
  ⑥???  ????               ??

 合計                       七千+α


赤井軍
  A本隊   荻野直正                三千
  B支隊   芦田五郎         二千五百
  C波多野勢 籾井教業  他         五千

 合計                     一万五百


  かつて、羽柴秀長は兄である羽柴秀吉に仕えるにあたり、『大将に必要なものとは何か?』を尋ねた事がある。
  その時の兄の答えはこんなものだった。

「どっしりと床几に座り、機を伺う事よ。
  小一郎。
  大将というものは、戦も策も他の侍がやってくれる。
  だが、皆の命を博打にかけてやるかやらないかだけは決めねばならぬ。
  大将の仕事はそれだけよ」

 そう言って兄は豪快に笑ったのだった。
  彼がそう言わしめたのは、主君である織田信長を見ていたからであろうが、その言葉を胸に彼は留守居役として羽柴秀吉の背後を守り続けたのである。
  そして、今までと同じように羽柴秀長は床几に座ったまま目を閉じてじっと待ち続けたのである。

「松永勢が崩れた以上、速やかに峠を下りて八木城に篭るべき!
  このままでは、挟まれて一同討ち死にぞ!」

 本陣に控えていた神子田正治が大声で主張する。
  なまじ峠の頂上なんて見晴らしのいい所にいるだけに己が死地に陥った事をいやでも理解していたのである。
  そしてそれは一同が皆思っていたことでもあった。
  神子田正治の言葉を目を閉じて聞いていた羽柴秀長はゆっくりと口を開く。

「丹羽勢はこちらに向かってきているか?」

「はっ。
  松永勢が崩れたのを見て幾ばくかの足軽が逃げ出したでしょうが、峠を登ってきている事は伝令にて確認済です」

 仏頂面で小寺孝高が淡々と事実を伝える。
  丹羽勢が傭兵の集まりで使えない事は誰もがわかっており、いくら合流しようとも戦のたしにはならない。
  だから、次の一言に諸将は皆驚きの目を向く。

「陣を下げるつもりは無い。
  尼子・明智勢は見捨てぬ」

 皆、尼子・明智勢が死闘を繰り広げていたのは理解していたが、見捨てても惜しくはないとも考えていたのは否定できない。
  双方とも所詮敗者の寄せ集めであり、己の背後が脅かされている現状で助ける必要があるのかと考えてしまったのである。
  だが、羽柴秀長は三つの理由から彼らを助けなければならなかった。
  それを羽柴秀長は抑揚のない声で淡々と諸将に言い聞かせる。

「たとえ朝倉の残党とはいえ、明智の旗を背負った兵を見殺しにしたならば、明智殿にどう返答すればよい?」

 今や織田家第一の重臣となり国持大名となった明智光秀の兵を見殺しにしたとあればいやでも確執が起こる。
  織田家の功績主義もあって、家臣間同士の仲が良くは無い現状でその失点は考慮せざるをえないリスクを孕んでいたのである。
  その事実を突きつけた瞬間に、神子田正治をはじめとした家臣達の顔色が変わる。
  そのタイミングを見逃さずに羽柴秀長は次の理由を告げる。

「それに、今の織田には戦なれした兵は貴重よ」

 倶梨伽羅峠の大敗によって歴戦の将兵の大部分を失った織田家にとって、たとえ兵の錬度が劣っているとはいえ三千という規模で統一運用ができる尼子党というのは貴重な貴重な即戦力であった。
  現在織田家の戦力は再編途上であり、特に京近辺の守りを任されている羽柴家において彼らの存在が無ければ、合戦すら行えずに城に篭って後詰を待つしかない状況に追い込まれかねなかったのである。
  今回の合戦は実質的な攻勢防御である以上、その攻勢防御を行う戦力が枯渇した場合朝廷が進めていた和議すらぶっ飛ぶ可能性があったのである。
  諸将が黙り込んだのを確認した上で羽柴秀長は最後の理由を告げた。

「中山・観音峠を崩した事で、赤井は和議の名分が立った。
  これ以上の戦を望まぬならば、いずれ村雲の戦も引くであろう。
  そこを追い討ちする」

 この時、『羽柴秀吉の弟』に甘んじて将才について諸将から疑念を持たれていた羽柴秀長が、『羽柴秀長という将』に成り上がる。
  的確な現状認識、織田家の戦略から現在の戦場を適合させて、その目標を達成しようとする執念。

 出来ることを、真剣に、淡々とこなし、才能ある部下に仕事を任せ、自分が責任を取る。

 それが、羽柴秀長という人だった。
  だからこそ、彼は英雄達の手によって歴史の舞台に上がる。

「八木城より伝令!」

 羽柴秀長には、大友珠のような大局観や経済観なんて持っていない。
  だからこそ、大友珠は利益が確定した丹波について放置を決め込んでいた。

「羽柴秀吉様より『織田信長様御自ら馬周りを伴って後詰に参る』と!」
 
  羽柴秀長には、織田信長のような天才的戦略眼や壮大な構想もない。
  だからこそ、織田信長はこの一戦が西国戦線および京都防衛を左右する一戦で、必要なのは兵ではなく『織田信長まで出た』という事実である事を見抜いて岐阜から駆けに駆けてこの戦場に間に合わせた。

「秀吉様も兵を率いてこちらに向かっていると!」

 羽柴秀長には、羽柴秀吉のような人たらしの華やかさや弁舌はない。
  だからこそ、羽柴秀吉は先に彼の元に帰った竹中重治からの報告を聞いて、躊躇う事無く織田信長の出馬を願い、前田利家や古田重然、中川清秀などから兵を借りて後詰を送り出したのだった。

 その全てが羽柴秀長を歴史の舞台に押し上げる。
  相手は丹波の赤鬼こと荻野直正。
  あくまでこの戦は和議のための合戦。
  観音峠から見えた織田信長の馬印を見た瞬間、己が最高値をつけられている事を知って躊躇う事無く兵を引く。
  彼もまた英雄だった。

「峠を下って尼子・明智勢の後詰をする!
  そのまま赤井勢を追い討ちするぞ!!」

 あと少し決断が早ければ、がら空きの峠を見た荻野直正に襲われかねなかっただろう。
  あと少し決断が遅ければ、兵力で劣っていた尼子・明智勢が総崩れに陥っていただろう。
  羽柴秀長。
  彼もまた英雄になる。

 


地理説明
 
  ▲               
黒井城                            観音峠
                              
                           中山峠
              
            村雲 B②   天引峠
              C③     △
                 ①   ④
                          
       ▲                ⑥     
      八上城                     凸
                             八木城


織田軍
  ①本陣   羽柴秀長  他           二千
  ②尼子党  山中幸盛  他          二千
  ③明智勢  真柄兄弟                千
  ④丹羽勢  日根野弘就              千
  ⑥後詰   織田信長 羽柴秀吉 他   三千

 合計                            九千


赤井軍
  A本隊   荻野直正              撤退中
  B支隊   芦田五郎                 二千
  C波多野勢 籾井教業  他           五千

 合計                             七千
 
 


「後詰が来る!
  援軍がこっちに向かってくるぞ!!」

「もう少しじゃ!
  赤井勢を押し戻せ!!!」

 峠を駆け下りてくる織田軍の旗に歓声をあける織田軍とは対照的に、赤井勢はその動きが止まってしまう。
  戦の流れが変わった分水嶺を山中幸盛が見逃すはすが無かった。

「押し返せ!
  この戦我等の勝ちぞ!!」

 最も、声をあらん限りに叫んで鼓舞する山中幸盛だが、その顔は苦々しく苦笑していたのに気づいていた。
  なぜならば、九州の地で彼は同じように峠を駆け下りてくる鍋島信生率いる竜造寺の旗によって敗北へと転げ落ちていったのだから。
  立場は逆だが、忘れてしまうにはあまりにも思い過去を忘れるかのように叫びながら尼子党を動かして赤井勢を追い討ちしてゆく。

「この勝負我等の勝ちよ!
  なあ、弟者!!」
「兄者の言う通りじゃ!
  手柄首を稼ぐは今ぞ!!!」

 赤井軍の猛攻を凌ぎきった明智勢が満身創痍で前に前に押し出してゆく。
  赤井軍は動揺は見られども隊を整えつつ後退してゆく。
  地の利を持ち、兵力で勝っているのも大きいが、それを破綻させずに確実に後退してゆく籾井教業と芦田五郎もまたひとかどの将なのは間違いは無い。
  後退してゆく赤井軍を追い討ちしていた尼子・明智勢だが、本格的な追撃は行わなかった。
  明智勢は前線を支えて疲れきっていたし、尼子党は追撃を行えるだけの兵の錬度がない。
  そして、羽柴秀長率いる本陣の先鋒が尼子・明智勢に合流する。

「羽柴秀長が家臣、宮部継潤でござる。
  尼子党及び明智勢が無事で何より」

 小走りに山中幸盛の元に駆けてきた宮部継潤に対して汗まみれ返り血まみれの真柄兄弟が声をかける。

「我らを気遣うのは構わぬ。
  はよう追撃せねば手柄が逃げてしまいますぞ!」

「おうとも。
  大将首を取り逃がしたのは痛いが、追い討ちで名のある者が取れましょうぞ」

 その言葉を聞いて、宮部継潤は心の底から安堵のため息をついたのであった。

「今の言葉を聞いて安心しました。
  『大将首を取るな』が命令でしたゆえ」

 その一言に今回の戦の趣旨を思い出した山中幸盛は納得して兵をまとめにかかるが、好き勝手に暴れられると思っていた(もちろん趣旨など忘れている)真柄兄弟は文句を言わざるを得ない。

「待たれよ。宮部殿。
  我等の鬼退治はどうなるのだ?」
「兄者の言うとおりじゃ。
  鬼と戦えると勇んできたのにこれでは中途半端というもの」

 真柄兄弟の鬼退治希望(というか、お前ら二人が返り血で既に鬼になっていると言いたい)を淡々と聞いた元僧職であった宮部継潤たった一言。

「鬼が島にでも行って下され」

 隣で聞いていた井筒女之助が可愛くふきだしてしまい、こんな可愛い娘が笑ったら戦なんてねぇと真柄兄弟も戦気より色気に天秤が戻る。

「やめじゃ!やめ!
  帰って女と寝るぞ!!」
「応とも。兄者。
  『小鬼娘揚羽』の割引札で京の女と遊ぶぞ!!」

 かくして、織田軍は追撃を中止して天引峠から撤退。
  赤井軍はそれに手を出さなかった。

 


「画竜点睛を欠いてしまい申し訳ござらぬ。
  織田勢は強く崩れず、こちらの誘いに乗ってきませなんだ」

「追撃しなかったか。
  無事に帰れて何より」

 合流した芦田五郎と籾井教業が己の失態を詫びるが、荻野直正は笑ってそれを許す。
  彼にとってはこの合戦の結末は満点に近いものだったのだから。
  実は、荻野直正が撤退していた兵の中から選抜した五百を二人の方に差し向けて追撃してくるだろう織田軍に逆襲するつもりだったのだが、織田軍は撤退する赤井軍を見向きもせずに全軍を撤退させたのである。
  その見切りの良さに荻野直正は感心せざるを得ない。

「双方見せ場を作り、互いに大将首は無し。
  これほど和議に都合のいい戦があろうか。
  羽柴秀長。
  侮ってはならぬ相手であった」

 その後、朝廷と幕府の仲介による和議が成立する。
  謀反の責任を取って荻野直正は頭を丸めて隠居する(もちろん形だけ)事で手打ちとなった。
  こうして、織田家は最も危ない時期をかろうじて乗り越える事に成功する。

  

 

村雲合戦

兵力
  織田軍 織田信長・羽柴秀長  他 一万三千  
  赤井軍 荻野直正          他 一万二千  

損害
  織田軍  三千(死者・負傷者・行方不明者含む)
  赤井軍  二千(死者・負傷者・行方不明者含む)

討死
  なし 

 


 

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