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大友の姫巫女

南海死闘編

第四十二話 尼子の残光 敗残者達の宴 

  
丹波国 八木城

 家中に内紛を抱えている城で篭城戦が戦えるほど戦国の世は甘くない。
  内藤家の内紛に介入した形ではじまった八木城攻めは一週間で終わり、織田軍は丹波に本格的な拠点を確保したのである。
  だが、織田家が侵攻した丹波への大義名分は赤井一族への討伐である以上、まだまだ道のりは長かった。
  その一室にて、城代として就任した尼子勝久を上座に据えて、羽柴軍の軍議が始められようとしていた。

「問題は、波多野がどう動くかだ」

 今回の戦において軍師として任命された小寺孝高が丹波国の地図を睨みながら問題点を語る。
  この地に常駐するのは尼子家残党を中心とした三千ほど。
  とてもではないが、攻めるに足りる兵力ではない。
  そんな死地にも等しい場所に軍師として志願したのは、竹中重治という軍師のいる羽柴軍内で早く自分の立場を確保したいからに他ならない。
  小寺孝高の言葉を受けて、実際に軍を動かす山中幸盛がため息と共に意見を吐き出した。
 
「波多野は刺激しない方が得策か」

「とはいえ、赤井と波多野は繋がっている可能性が高いかと」

 この情報を掴みだしてきたのは井筒女之助だったりする。
  彼女(男の娘)は、九州の地で目も耳も塞がれた尼子軍が小金原で壊滅した教訓から己の間者としての仕事の重要性を思い知り、それゆえ西国随一のくノ一とまで呼ばれるほどになったのだが、その体で得た情報は敵だけでなく味方であるはずの織田家中からも引き出していた所に彼女(男の娘)の真髄がある。
  赤井側、織田側という真逆の位置から情報を見る事で客観的な立場から物事を見る事ができ、それがこうして彼らを死地から救う事になる。
  現状では、波多野家は具体的な動向を示さずに中立という扱いになっていた。
  だが、波多野家が赤井側についた場合一万以上の兵で攻めてくる事ができるし、こちらについたならば赤井一族掃討に一気に近づく事ができる。 
  もう一つ、波多野家は播磨国別所家と姻戚関係を結んでいる。
  波多野と赤井が手を組んでいるならば、必然的に別所家も関与していると見た方がいい。
  そこまで手が広がったらならば、必然的に西国の雄である毛利家も出張ってくる。
  それだけは絶対に避けなければならなかった。
  なお、毛利家は山陽方面を宇喜多直家、瀬戸内海を小早川隆景、山陰方面を吉川元春に任せて東に勢力を広げている最中である。
  山陽方面と瀬戸内海方面は淡路島に水軍を常駐させて周囲を睨みながら宇喜多領の掌握を進めているのだが、その水軍力で武器や兵糧が送られ続けたら泥沼化する。

「ひとまず旗は立ったのだ。
  焦る事無く、時間をかけるというのは駄目か?」

 そう言って慎重策を主張したのが京極高吉。
  尼子残党が畿内で活動する為の旗印としてここに呼ばれていた。
  尼子滅亡時、国人衆の離反と九州小金原における尼子勢の壊滅によって尼子の名前は決定的に衰えていた。
  その為、羽柴秀吉の下で再興を狙う山中幸盛にとってそれを補う権威を必要としており、同じく成りあがりとして権威が必要な地位にまで登ってしまった羽柴秀吉もその動きに一枚噛んだのである。
  京極家は室町幕府内で軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官(頭人、所司)に交代で任じられた守護大名の赤松・一色・山名と同じ格を持つ名族で、最盛期は近江・出雲・飛騨の守護であり、尼子家はこの京極家の分家で出雲守護代として出雲を支配していたのだ。
  それゆえ、京極家の復興は足利義昭率いる幕府内部の掣肘が行えると同時に守護代尼子家の復興という名分もつけられる一石二鳥の策で、尼子党の拡大に大いに役立っていたのである。
  事実、畿内での尼子党の活躍と京極家の権威が加算された結果、現在の尼子党には山中幸盛・尼子氏久・尼子通久・神西元通・立原久綱などの将が集まってきていた。

「『虎穴に入らずんば、虎子を得ず』。
  今は織田が動きようがないが、それゆえに功績をあげれば明智殿よろしく国持ち大名となれる。
  羽柴殿に与えられた丹波一国の褒章はそれだけの価値がある事は理解していると思うのですが?」

 立原久綱が淡々とした口調で嗜める。
  尼子家滅亡後に毛利元就から仕官を誘われたのを断って京都に来た尼子党の軍師的存在である。
  彼はこの膠着状態で功績をあげる事がどれだけ織田信長に評価されるか理解していたからこそ、危ない橋を渡る事を主張する。
  なお、山中幸盛達を九州に送るという分の無い賭けに負けていたりするのだが、それと同じような分の無い賭けを張る己に苦笑していた。

「兵が足りん。
  せめて同じぐらいの兵が欲しい所だが……」

「どこから持ってくるんです?兵を?」

 神西元通がわかりきった事を言って、井筒女之助に突っ込まれる。
  羽柴軍の窮状は小寺孝高と山中幸盛には羽柴秀吉からじかに聞いていた。
  だからこそ、羽柴軍主力を動かす事ができないのはわかっている上で彼らはこの場所にいるのである。

 
「羽柴から持ってこれないのならば、他所から持ってくるしかないでしょう」


  その言葉を発した人間を一同は視線で追って、小寺孝高の顔に視線が集中する。
  その笑みは碌な事を考えていないんだろうなと誰もが思うほどぞっとするものだった。

 

「まさか織田の旗の下で闘う事になろうとはな。兄者」
「まったくだ。弟者。
  我らを連れて来るとは、よほど織田は苦しいとみた」
「さすがだな。兄者」

 えらく仲の良い掛け合い漫才をしながら二千の兵を引き連れてやってきたのは真柄直隆と真柄直澄の兄弟。
  かつて越前の大名だった朝倉家でも剛の者と呼ばれた二人で現在は朝倉景紀の下で将をやっていた。
  朝倉家の滅亡と一向一揆の蜂起とその殲滅によって旧朝倉家臣だった家の多くが滅亡したが、それをかいくぐった家もある訳で。
  失脚していた朝倉景鏡が群上八幡合戦にて討死した事で朝倉景紀は朝倉家中の意思統一を一本化する事に成功したがそれはあまりにも遅く、素早い織田軍の侵攻になすすべなく朝倉家は滅亡。
  敦賀を守って若狭と近江から押し寄せる織田軍を防いでいた朝倉景紀の元に、前波吉継の謀反によって一の谷炎上と朝倉義景切腹の報告が届きついに攻将だった明智光秀に降伏、その配下となったのである。
  多くの朝倉一族が朝倉の名を捨てたのに対して、

「我が苗字は朝倉しか知らぬゆえ」

 と信長本人の前で拒否して見せた豪胆さもあって朝倉姓を名乗り続けていたこの老将は、越前一向一揆をその柔剛織り交ぜてかわし、倶梨伽羅峠で大敗を喫する事になった加賀攻めで功績をあげて越前明智軍団の中でも重臣の地位を確立していたのだった。
  この背景には彼自身の才能もあるが、彼が治めていた敦賀という場所の地理的要因も大きい。
  日本海交易で外すことのできない若狭湾の中で指折りの良港を持つ敦賀港の価値を朝倉景紀は知り抜いており、そこからあがる富を背景に真柄兄弟等旧朝倉家臣を雇って一向一揆を防ぎ、加賀攻めの功績を持って織田信長相手にこれだけの譲歩を勝ち取るあたり養父である朝倉宗滴の教えをしっかり受け継いでいると言って良いだろう。
  なお、明智光秀がかつて朝倉家に在籍していた事もあって越前衆の雇用は順調に進んでおり、倶梨伽羅峠合戦に参加していた軍勢の中でもっとも速く回復していたりする。
  そんな織田家のトップクラスの重臣である明智光秀が、現在進められている丹波攻めとその意味を理解してない訳がなかった。
  小寺孝高の提案を採用した羽柴秀吉が頭を下げて明智光秀に頼み込んだ結果である。


「……思えば遠くに来たものよ」

 感慨深い言葉を吐き出したのは丹羽家家臣となった日根野弘就で、千の兵を連れてきていた。
  彼は美濃斉藤家の重臣だったのだが、斉藤家滅亡後に今川家に身を寄せ、今川家が滅んだので織田家に仕官するという流浪の人生を送っていた将である。
  彼は銭で集められた浪人衆を率いて縁があった丹後一色家を攻める為に兵を編成していたのだが、同じく羽柴秀吉が頭を下げた事で丹波にやってきていたのである。  
  織田信長は今回の丹波遠征と同時に次の行動として丹羽長秀に丹後攻略を命令していた。
  丹後を押さえ若狭湾の主要な港を全て掌握する事で、日本海交易に対して楔を打つ事を狙ったのである。

「織田家の影響力の無い所に荷を卸しますゆえ」

 と協力を拒否していた商人達が、否応無く織田信長の命令を聞かざるを得ない状況に追い込もうとするのが狙いである。
  これは日本海交易を牛耳っていた珠姫にボディーブローのように打撃を与え、その対処に頭を悩ませざるをえない大問題に発展しつつあった。
  日本最大の消費地である畿内を無視できる訳も無く、航路上の関係から格好の中継地点である若狭湾を放置するにもいかず、何らかの妥協を珠姫は迫られていたのだった。
  その妥協が成立した時、織田信長の畿内商人掌握が半分まで来たことを意味する。
  残りの半分は、大友毛利連合の金城湯池である瀬戸内海であり、その畿内最大の港となっている堺の掌握に他ならない。
  話がそれたが、若狭湾掌握という織田信長の構想が、羽柴秀吉の外交交渉で因幡・但馬を領有する山名家と外交関係を構築する事ができた事で急速に影響力を持ち出した。
  西国における毛利の影響力の増大から、山名家は一貫して尼子残党に対して支援を続けてくれた家でもあった。
  もっとも、大名権力が制限されて家臣の力が強く、その家臣の多くは毛利側というあたり具体的な行動は起こせそうも無いと思っていた。
  だが、荻野直正が山名領に侵攻し生野銀山を掌握した事で織田と山名に共通の利害が生まれた。
  尼子経由で情報を入手していたゆえにそれを見逃す羽柴秀吉ではなく、荻野直正をだしにして外交関係を樹立させ対毛利用の山陰側の壁を確保したのであった。
  山名家が浦上家以上に脆い壁というのは重々承知の上だが、それでもないよりはましだ。
  なお、宇喜多直家のクーデターで国を追われた浦上宗景だが播磨に身を隠して反宇喜多の火を煽っており、宇喜多家中はまだ収まっていなかったりする。
  だが、それ以上に大きかったのは、丹後以外に織田の影響力が及ばない港が若狭湾近郊で無くなってしまった事にあった。
  そして、その丹後も織田信長は丹羽長秀に兵の準備ができ次第攻める事を命令していた。
  そんな状況を羽柴秀吉は利用し尽くした。
  羽柴軍編成の借金を珠姫に頼んだのをいい事に、丹羽長秀や明智光秀に珠姫への仲介役を買って出たのである。
  織田信長としても若狭と越前の早急な復興は必要だった事もあり、『与えた領地については領主に一任する』事で黙認。
  商人達の呼び戻しと若狭湾の物流インフラの再構築に珠姫を噛ませる事で妥協を成立させたのだった。
  明智配下の真柄兄弟や丹羽配下の日根野弘就が兵をつれてやってきたのはそんな理由がある。
  仲介のお礼という名目だけでなく、安全に荷を流す為に若狭湾から丹波を経由して京に抜ける道を確保する事が商人達からのオーダーでもあったからなのだ。

 これで八木城に集まった兵は六千。
  丹波国人衆があてにならない以上最低でもあと二千は欲しい所なのだが、小寺孝高はその帳尻をとんでもない所から用意してきたのである。

「お待ちしておりましたぞ。福屋殿」

「なぁに、同じ尼子の者として当然の事。
  松永殿からも気前良く支援をしていただきましたぞ。
  こちらは、内藤如安殿で、此度が初陣との事」

 福屋隆兼は石見国本明城城主で、毛利に攻められて松永久秀を頼って落ち延びていた。
  尼子党の縁から彼と繋ぎを取って、松永久秀から兵を調達させたのである。
  内藤如安の一件で言質を取りたい松永久秀がこの動きを見逃すはすが無く、福屋隆兼と内藤如安にそれぞれ千の兵をつけて送り出したのだった。
  織田信長の構想である足利義昭と松永久秀を共食いさせるという策そのもののぶち壊しに近い行為に羽柴秀吉は激怒したが、小寺孝高は激怒した羽柴秀吉を前にただ一言。

「ここで負けたら倶梨伽羅峠どころでは無くなりますが、それでよろしいか?」

 の前に沈黙する。
  なお、この言葉は羽柴秀吉に連れられて織田信長の前でも吐いており、織田信長も二兎を追う愚を避けて小寺孝高の策を追認せざるを得なかった。
  かくして、決戦のための兵は整った。
  同時に、尼子に京極、朝倉に斉藤と敗者達を束ねたこの軍を取りまとめるだけでも一苦労だが、総大将たる羽柴秀吉は本願寺を警戒して山崎の地から動く事ができず。
  この雑多な軍をまとめる為に二千の兵と共に別の人間を総大将に押したのであった。


「小一郎。頼む」
「……かしこまりました。殿」




 

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