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大友の姫巫女

南海死闘編

第三十話 覇王対毘沙門天 第二次倶利伽羅峠合戦 前編 

  
  倶利伽羅峠。

 平安の末期、武士の世の始まりとされる源平華やかなりし時に、その戦いは起こった。
  平家打倒を目指す源(木曾)義仲軍は、この地で平家軍を火牛によって崖下に追い落とし、平家軍十万騎を壊滅させたとある。
  実際に牛を突っ込ませたのかとか、本当に十万も平家軍はこの地に連れてきたのかとか色々突っ込み所はあるのだが、物語ならばそれもありだろう。
  だが、そんな語り継がれた物語にも確かな事実は存在する。

 それは、この地で平家軍が壊滅的打撃を受けて負けたという事実である。

 地図が見れる方は倶利伽羅峠を検索してもらいたい。
  この地は加賀と越中の国境にある峠であり、加賀と越中を押さえてしまったら海路を掌握していない限り能登が陸の孤島になってしまう場所である。
  必然的にこの地を制した者が、加賀・越中・能登の三カ国を制する事ができ、それゆえ源平合戦の古よりここでは戦が起こっていたのである。
  上杉牽制を目的に、本願寺を唆した織田信長支援による北陸一向一揆はその目的を達していた。
  一向一揆の再蜂起とその崩壊はいまやこの三カ国を大名の草刈場に変え、その草を刈りに来たのが織田信長と上杉輝虎だったのである。


  越中国 松倉城

 越中東部における政治経済の要衝で、この城を長く支配していたのは椎名氏だったのだが武田家の諜略によって上杉家に謀反を起こし滅ぼされた。
  この椎名家謀反が越中一向一揆と絡まって一時期上杉勢の勢力を越中から駆逐する事になったが、今川家攻撃に伴う北条家との和睦で関東に介入する必要の無くなった上杉家の本気を防げるわけもなく。
  椎名家滅亡によって上杉家直轄となったこの城には河田長親が奉行として入り、越中の上杉家勢力の回復に努めていたのだった。
  現在、この城に集っている上杉軍は一万を越えるぐらいだが、魚津城からこの城にやってきた足利義輝の威光もあってその兵数は増加しつつあった。

「御疲れの所申し訳ございませぬ。
  神保家家老、小島職鎮より御所様への挨拶が」

 河田長親の言葉に己の存在価値を十二分に理解していた越後公方足利義輝は、公方らしく億劫に頷いたのみだったが衣越しに分かる引き締まった精悍な身体と体から漲る力は、彼の越後での生が公方ではなく剣豪として生きていた事を主張していた。
  その彼を公方として動かしたのは兄弟子にあたる北畠具教の敵討ちと、窮地に立っていた弟足利義昭への支援の為に他ならない。

「構わぬ。
  上杉の良いようになされるが良い」

「いえ。
  此度の軍の総大将は公方様でござる。
  我らは公方様の意によって動くのみで」

 軍の先鋒である柿崎景家が力強く言ってしまうので、足利義輝を始め諸将は苦笑せざるを得ない。
  実際、この軍勢は上杉勢によって運営されており、それを柿崎景家を含めて皆が理解しているのだが、ただの傀儡に終わらないだけのものが足利義輝に備わっていたからに他ならない。
  まず将軍という政治的権威は地方である越後において絶大な影響力を及ぼし、家臣団の統制に苦しんでいた上杉家においてなくてはならない存在になっていたのだった。
  次に彼自身が剣聖とうたわれる上泉信綱と剣を交えるほどの剣豪であり、それが武勇を尊ぶ越後兵からの信頼ともなっていた。
  何よりも上杉輝虎が足利義輝に絶大の信頼を置き、彼の京都帰還を(本人は望んでいないのだが)強力に支援していたのが大きい。
  その影響力の強さに家中には足利義輝の排除の動きもあるらしいが、一剣豪としての暮らしに終始していた事もあってその動きもいつの間にか消えていた。

「とはいえ、わしは越中を良くは知らぬ。
  やってくる国衆と会ってこちらに引き込むぐらいの事はできるが、実際に知らぬ者が軍を動かして戦が勝てるとも思えぬ。
  そのあたりは任せたいのだがよろしいか?」

 この一歩引いた足利義輝の姿勢が上杉軍諸将に大いに喜ばれたのは言うまでもない。
  そして、小島職鎮との会談の為に足利義輝が中座した事を確認し、実際にこの軍を動かす本庄実乃が言葉を発した。

「では、我らは公方様の意によって自在に軍を動かす事を許されたがどのように動くべきだろうか?」

 その言葉に反応した将の一人が発言を求めた。

「ならば。
  越中の混乱は飛騨経由での武田の諜略にあり。
  これを機に一軍を出して飛騨まで攻めるべきかと」

 本庄繁長の絶対的な自信を持った発言に諸将の幾人かは苦笑でこれに答えた。
  何しろ、本庄繁長は越後北部の揚北衆の大豪族で独立傾向が強く、彼自身が何度か蜂起を企てたのだから。
  それを実行に映さなかったのが、席を立った足利義輝の存在だったりする。
  ちなみに、この武田信玄の諜略ルートで何度か本庄繁長にも文が来ているのだから間違いがない。
  本庄繁長の言葉に河田長親が思い出したように呟く。

「たしか、飛騨の塩屋秋貞から支援の文が来ていたはすだ。
  軍全てを向ける事はできぬが、一隊を出せば事足りるだろう」

「ならば、それがしが行こう。
  塩屋が求めるのが、足利の旗ならば長尾の名前が効くだろうて」

 そう言って志願したのが長尾政景である。
  上杉輝虎のいとこにあたり、一時は双方刃を交わした関係なのだが和解して重臣として用いられていた。
  将軍という御旗が必要な飛騨において、長尾の名前もまた有効に作用されるだろう。
  少し話をそらすが、現在の上杉家と武田家の関係は足利義輝の御内書によって和睦が成立しているが、手は握手をしてながら足は踏んづけているという和睦である。
  和睦によって信濃国川中島経由で越後春日山城を突かれる危険はなくなったが、だからといって武田領に手を出さない理由はない。
  助けを求めてきた塩屋秋貞を使って飛騨を間接支配しようと企んでるあたり、上杉家もまた戦国大名なのだった。
  そして、そんな飛騨での上杉家の動きを把握していながらも、北条家との戦いで駿河・甲斐・上野が最前線となった武田家はそれを放置せざるを得なかったのだった。

「ならば、長尾殿におまかせしよう。
  それで、今公方様が相手をなさっている神保家なのだが」

 畠山・上杉・一向一揆と国外勢力に踊らされている越中国人衆の常だが、家中がまとまっている所の方が少ない。
  それは神保家もその例に漏れず、反上杉勢力の排除の支援をというのが小島職鎮の要求だろうと諸将は皆分かっていた。

「手伝うのは良いのだが、問題は織田だ。
  奴らが加賀を押さえると必ず越中の一向一揆勢も叩きに来るぞ。
  軒猿の報告では、加賀大聖寺城に集まる織田軍の総数は約五万。
  中が割れている一向宗では支えきれんぞ」

 本庄実乃の言葉に本庄繁長がその先を見据えて話を続けた。
  実は上杉家の悪い癖なのだが、軍事行動において名を取る傾向が強い。
  まぁ、名が取れるだけの経済的裏づけがあるからなのだが、今回の出兵も、

1)足利義輝の京都帰還支援と織田信長への懲罰(加賀・越前)
2)越中一向一揆の殲滅(加賀・越中)
3)能登畠山家のお家騒動の介入(能登)
4)塩屋秋貞支援(飛騨) 

 という欲張り四本立ての大儀を引っさげての出陣である。
  同時に、大儀が優先して戦略が付随する形になる為に、今の飛騨出兵みたいに兵が分散する事も多々あった。
  それでやっていけるだけの軍事的強さこそ上杉家の強さなのだが。
  そろそろ勘のいい人はぴんと来るだろう。
  この話、一度として上杉家の大名である上杉輝虎が出てきていない事を。
  なぜならば、上杉輝虎は己の馬周り五千の兵のみで海路能登に上陸していたからである。
  『各個撃破』。
  軍事知識を持つ者ならば即座にその危惧を考え、知らぬ者でも説明すればその危険に身震いする綱渡りを上杉輝虎は平然とやりやがったのである。
  その背景にあるのは、己が負ける事など考えない上杉輝虎自身が持つ絶対的な戦術眼に他ならない。
  実際に姉川合戦で織田軍をそれで破っているのだからなお性質が悪い。
  さあ、ここで思い出してみよう。
  加賀大聖寺城に織田軍がいくらいたかを。
  もちろん、上杉輝虎はそれを知った上で堂々と能登に乗り込んだのである。
  これ以上ない挑発だった。

「どうにかするしかあるまい。
  越中の国人衆をまとめればあと五・六千は集まるだろうが、迎え撃つにはちと兵が足りぬ」

 河田長親の苦笑する顔と共に出てきた言葉に、諸将も『いつものこと』と苦笑するしかない。
  激昂するであろう織田軍の目を能登に向けさせないというのは不可能だろうから、その軍勢の幾許かを越中方向に掣肘する必要があったのである。

「倶利伽羅峠しかあるまい」

 柿崎景家の言葉に、諸将は地図上に書かれた倶利伽羅峠を注視する。
  ちなみに、この辺りは越中一向一揆勢力のど真ん中だったりするのだが、今の一向一揆勢に上杉軍を押し留める力は残っていない。
  上杉軍一万五千が倶利伽羅峠に陣を敷いたのならば、織田軍は三万は用意するだろう。
  で、二万『程度』の織田軍ならば『蹴散らせる』と彼らが本気で信じている辺り、上杉輝虎のチート具合が分かろうというもの。
  某九州のさる姫君が聞いたら激昂しかねない色々規格外の軍議の果てに、上杉軍は越中侵攻を開始したのだった。 

 


  一方の織田軍だが、この上杉軍のなめきりまくった方針を察知して激怒した。
  と、同時に恐怖もしていたのである。
  何しろ彼らは姉川合戦で上杉輝虎率いる五千相手に完敗を喫して、九分九厘手にしていた勝利を捨てる羽目になっていたのだから。

「此度は五万の兵がある!
  いくら上杉とてこの兵の波に消えるは必定!!」

 織田軍の武将が声をからして鼓舞しても、あの姉川合戦経験者の口から上杉軍の恐怖が人づてに伝わるのを阻止できる訳がない。
  ここで、今回の織田軍の編成を見てみよう。

 織田軍 本陣     大聖寺城 
         総大将      織田信長                     八千

        先陣     若狭・越中・近江衆
        大将         丹羽長秀
                    逸見昌経・粟屋勝久・明智光秀
                    朝倉景紀                     一万

        主力     尾張衆
       大将         柴田勝家
                     中川重政・池田恒興・塙直政
                    佐久間信盛・簗田広正           二万

        後詰     美濃衆
        大将         森可成            
                    安藤守就・氏家直元・稲葉良通     一万 
         
 
  大兵力ではあるのだが、これだけの兵をもってしても上杉輝虎に勝てるとは将兵とも思っていないあたり、姉川合戦のトラウマがいかにでかかったか伺い知れよう。
  ちなみに、このジレンマを実は西国で大友珠が島津相手に十二分に味わっていたりする。
  まぁ、自分が散々苦しんだからこそできる仕掛けではあるが、その効果は折り紙つきである。
  ただ、同じ状況に追い込まれたにも係わらず、織田信長と大友珠は違っていた。
  日向征服できたからと島津と戦わずに兵を退いた大友珠と違い、天下布武を目指す織田信長にとって加賀・越前の一向一揆だけでなく上杉輝虎も倒すべき敵でしかない。
  そして、彼は姉川合戦時より更に倍の兵力を持ってすれば、上杉輝虎の五千の兵を抑えられると信じざるを得なかったのである。

「まことか!」

 大聖寺城から動く事をしなかった織田信長の元に吉報が届いたのは、軍を送り出してから数日後の事だった。

「はっ。
  明智光秀殿が、諜略によって尾山御坊の大将七里頼周を討ち取ったとの事。
  尾山御坊は既に同士討ちが始まっており、落城はいずれ時間の問題かと」

 分かっていた事だが、本願寺から派遣された七里頼周ではついに一向一揆を掌握する事ができず、内部崩壊を起こしてしまったのだった。 
  そこを謀将明智光秀に突かれた以上、尾山御坊は落ちたも同然だった。
  これで、織田軍は加賀・越前の攻略という当初の戦略目標を達成した事になるのだが、目の前の能登で上杉輝虎が五千の兵で挑発している。
  越中に侵攻している上杉軍は一万五千程度とみられており、能登の上杉輝虎を叩いて越中上杉軍を潰してもおつりが来る。
  とはいえ、越中から倶利伽羅峠を越えて加賀に上杉軍がやってきたら、その時に能登にいた織田軍は挟まれる。
  その為、織田軍も倶利伽羅峠を確保する必要に迫られたのである。

 もう一つ、織田軍には兵を進めなければならない理由があった。
  加賀・越前征服後の統治なのだが、多くの地場侍が一向一揆と共に滅ぼされており、加増を含めた大抜擢が確定事項になっている。
  その功績の評価という点で、目の前の能登にいる五千しかいない上杉輝虎というのは最高の獲物に見えたのだった。
  織田家は能力主義であるがゆえに、競争風潮と家中の仲が決して良くはない。
  それでも円滑に機能していたのは、織田信長を頂点とした独裁体制が確立していたからに他ならない。
  比叡山焼き討ちを進言して足利義昭のクーデターを防ぎ、尾山御坊を落とした功績で明智光秀は織田家家中の新参者から最高位の重臣に成ろうとしており、その嫉妬の炎が競争心を煽って進撃を主張したのだった。
  さんざん恐怖に駆られていると書いたのに、この裏返しはどういう事かと言うと、

「先陣は上杉に討ち取られるだろう。その弱った所をおいしく頂けば功績独り占め」

 と多くの織田家将兵が考えていたからに他ならない。
  ここで編成を見てもらいたい。
  忠誠を見せる必要から先陣の多くは降将や新参者である事が多い。
  今回の織田軍もそれなのだが、尾山御坊落城(まだしてないのだが)を含めて先陣というか明智光秀が功績を取りすぎていた。
  かくして、織田軍主力と後詰は進撃を主張。
  先陣は尾山御坊を落としてから後詰と入れ替わる事が信長の命によって発せられたのである。
  森可成率いる美濃衆一万が倶利伽羅峠を確保し、織田軍主力二万が能登の上杉輝虎を討ち取る。
  その手はずで進撃を再開しようとした時、織田軍が倶利伽羅峠に派遣していた物見の急報が入る。

「倶利伽羅峠に一向宗が立て篭もっています!」

 織田軍の越前・加賀侵攻において越中一向一揆はかなりの手勢を加賀の後詰に出していた。
  だが、七里頼周の指揮と加賀一向宗の内部分裂に見切りをつけて早々に離脱して、越中に帰国しようと倶利伽羅峠を押さえたのである。
  同時に、織田軍の一向宗弾圧によってかなりの数の難民が逃れようとしており、彼らの逃亡路となっていたのである。
  このままでいけば、織田と上杉に挟まれて一向一揆勢は全滅する。それはどうでもいい。
  問題はその後でどちらが倶利伽羅峠を押さえているかであった。

「構わぬ!
  一向宗ごと攻めよ!
  倶利伽羅峠を押さえねば、我らが挟まれるぞ!!」

 比叡山焼き討ちで女僧侶見境なく虐殺して大功を得た森可成が、躊躇う事無く倶利伽羅峠に軍を進める。
  一向宗の多くを斬り捨て、谷に突き落として倶利伽羅峠を確保したのはいいが、そこから物見を出して調べた越中の上杉軍の歩みが思ったより遅い事を知る。

「上杉軍が富山城までしか来ていないだと?」

「はっ。
  どうも越中国富山城の神保家のお家争いに巻き込まれて足止めを食らっている模様。
  しかも兵を分けて飛騨へも兵を出しているとか。
  富山城にいるの兵は一万ほどかと」

 その報告を聞いた森可成は、餓狼が舌なめずりをするように倶利伽羅峠から眼下に広がる豊穣な富山平野を見据えたのだった。
  越中を押さえてしまえば能登の上杉輝虎など立ち枯れるし、富山城の上杉軍には上杉輝虎はいない。
 
「柴田勝家と丹羽長秀に伝えよ!
  我らはこのまま峠を下りて越中に乱入するとな!」

 この報告に柴田勝家と丹羽長秀は仰天するが、越中に来ている上杉軍が思った以上に少ない事と上杉輝虎に当たる必要はないと悟った柴田勝家が転進。
  池田恒興と佐久間信盛を丹羽長秀につけ、一万五千の兵を率いて倶利伽羅峠を越えたのだった。

 


  彼らは見落としていた。
  海路を掌握していたからこそ上杉輝虎は能登にやってこれたのであり、行く事ができるのならば帰る事もできるという当たり前の事を。


 


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