戻る 目次 

大友の姫巫女

南海死闘編

第二十九話 覇王対毘沙門天 第二次信長包囲網 

「あのビッチ姫とかけて、つまらない映画を見に来たセレブととく」

「その心は?」

「映画より観客をひきつける。
  あのビッチ姫、傍観者の方がやる事えげつないんだよなぁ」

――○○年IFコンにて年齢不詳の美女が顔に怒りマークを更に増やしながら聞いていたとも知らずに話す参加者より――

 

 

 比叡山延暦寺を焼いてから一月後。
  織田信長が支配する畿内は平穏を保っているように見えた。
  事実、これだけの暴挙をやらかしたのにその奇襲効果で、石山本願寺も大友珠姫も足利義昭も動く事ができていない。
  この間に粛清の手が届く事を恐れた三好義継が一族を連れて出奔していたりするが、畿内の反信長勢を粛清した事と四国の長宗我部の取り込みに成功した事もあり、空いた領地を羽柴秀吉に押えさせる指示を出すだけに留まっていた。
  織田信長はさらに状況を作ってゆく。
  手足をもがれた足利義昭と比叡山を焼いた事で脅えている朝廷に要請して、土佐守と土佐守護を長宗我部元親に与えて大友を掣肘し、尼子勝久と会談して支援を約束。
  浦上攻めの最終段階に来ていた毛利軍はこの一報に仰天して、吉川元春の軍勢を大慌てで山陰に戻して尼子残党の蜂起に備える始末で、石山本願寺を支援する背後勢力の動きを押さえたのだった。
  だが、そこまでして石山本願寺を裸にしたのに織田信長は動かない。
  むしろ、石山本願寺への警戒を羽柴秀吉に任せて、美濃・尾張からもかき集めた織田軍を越前に投入。一向一揆勢を殲滅していったのだった。
  比叡山炎上による政治効果は計り知れず、元からあった一向一揆内部での本願寺坊官と国人衆の対立に火をつけて内部分裂の様相を呈していたからである。
  織田信長本人が率いる五万近い兵による若狭・近江・美濃からの三方向同時攻撃に、一向一揆を率いる下間頼照は支えきれずに討ち死に。
  越前一向一揆勢は各地で殲滅されつつ加賀に押し戻され、そのままの勢いで織田軍が加賀になだれ込もうとした時にその凶報が越前まで出向いた織田信長の下に届けられたのだった。

「上杉と武田が和睦しただと!?」

 その情報をもたらしたのが同盟国である武田なのだからまず間違いが無い。
  そして、使者から伝えられたその和睦に一役買った人間の名前を聞いて諸将は真っ青になる。

「はっ。
  武田殿曰く『足利義輝公の御内書によって越後上杉家と和睦する事に相成った』と」

 これまで越後に留まってまったく政治的な動きをしてこなかった足利義輝がついに出した政治介入の意図は明らかだった。
  武田家はそれまでの同盟国だった駿河の今川家を攻めた事で、宿敵上杉家だけでなく相模の北条家までも敵に回してその対応に追われていた。
  同時に敵の敵は味方と上杉家と北条家の間に同盟が結ばれて、武田家を相手に共闘が取り決められていたのだった。
  同盟国とはいえ背後でどう動くかわからない武田家を牽制すると同時に、明確に敵対の意思を示している上杉家も牽制できる状況だったのにそれが崩れた。
  それの意味する所は、上杉輝虎が関東や武田を気にする事無く軍を動かす事ができるという事だ。
  現実はそれ以上に悪かった。
  さらに数日後、加賀国に入った織田軍は大聖寺城を修復中にその凶報を耳にする。

「上杉軍が越中魚津城に出現!
  旗の中に足利義輝公の馬印あり!
  越中の国衆が雪崩を打って誼を結んでおります!」

 うって変わって政治的に動き出した足利義輝の行動に、織田信長は歯噛みして耐える事しかできなかった。
  抱え込んでいるとはいえ、足利義昭の権威を比叡山炎上のさいに貶めたのは織田信長自身なのだから。
  一向一揆に従うのはよしとしない越中国人衆にとって、足利義輝という御旗はかっこうの旗印だったのである。
  しかも、加賀越前の一向一揆に少なくない兵を応援に出した事もあって、越中内部の一向一揆勢は急速に沈静化しつつあったのである。

「何故だ?
  何故この段階で足利義輝が動くのだ!?
  動くならばもっと前に動いた方が、姉川で動けばよかったはずなのに!!!」

 織田信長の叫び声は足利義輝に届かない。
  織田信長は知らない。
  ただ一人の剣豪として振舞っていた足利義輝を動かした怒り――兄弟子にあたる北畠具教の敵討ちと窮地に立っていた弟足利義昭への支援――を。
  そして、そのあたりの畿内情報を事細かにかつ本多正行による裏取りまでして、どこぞの姫君が海路はるばる足利義輝にタレこんだ事を。
  一度行動に移った上杉軍は、織田信長の予想をはるかに覆して燎原に広がる炎のごとく北陸を侵食する。

「上杉輝虎が畠山義綱とその父の畠山義続を連れて能登に上陸!
  能登国人衆や一向一揆勢を蹴散らしています!」

 それの意味する所は明確だった。
  北陸情勢で無視する事ができない能登畠山家の家臣団分裂問題に上杉輝虎の武力で鎮圧し、足利義輝の権威で確定化させるつもりなのだ。
  しかも、上杉家は軒猿をはじめとする間者団を急成長させており、諜略で能登や越中の反対派勢力を凄い勢いで切り崩していったのである。
  それを支えるのは織田信長に近江を追われて能登畠山家と縁戚だった縁で、上杉家を頼った六角義賢率いる甲賀忍達である。
  彼らの逃亡劇に一役買ったのが、姫巫女衆くノ一部門を統括していた元甲賀抜け忍の舞であり、当然の事ながらそれは珠姫の了解の下に行われていたりする。
  越前・加賀の一向一揆を殲滅しつつ、あわよくば能登・越中、更には越後までと侵攻計画を立てていた織田信長は、一転して加賀の領有をかけて上杉輝虎相手に一戦交える状況に追い込まれてしまったのである。
  そして、織田信長は自身が罠にかかった事をはっきりと理解した。

「商人たちが船を出すのを渋っております」

 当たり前である。
  若狭商人は日本海交易の主要プレイヤーである。
  誰がというか珠姫しかいないのだが、日本海交易を牛耳っているか考えれば堺以上に抵抗があって当たり前である。
  船の出先は何処でもいいが、終点は門司であり博多という日本海交易から外れるという事は商人にとって死を意味しかねない。

「町や船を焼くのならどうぞ。
  我らは丹後にでも荷を卸しますゆえ。
  何よりも、越前を一向一揆に蹂躙させたその責は誰がお取りになるのか是非お聞きしたいのですが」

 朝倉家の滅亡と一向一揆の蜂起で若狭・越前商人は壊滅的打撃を受け、比叡山延暦寺焼き討ちによって発生した延暦寺証文の債務不履行によって止めを刺されていた。
  生き残った商人たちは信長に対する怨嗟の声を吐きながら、店と荷卸を丹後国田辺や宮津に移していたのだった。
  そして、西国経済に組み込まれた日本海交易の活発化は、要衝直江津を抱える上杉家に巨万の富をもたらしていた。
  特に珠姫を中心とした姫巫女衆から始まるファッションブームに必要だった青苧と麻布は飛ぶように売れ、春日山城には二万両を越える金銀が貯蔵されていたという。
  で、それだけの銭があるならば、当然のように西国から米を買い入れる事もそれを運搬する事も可能だったのである。
  その運搬統括責任者が、南蛮船を抱えて日本海や瀬戸内海の航路ダイヤグラムを某ハマの赤いあんちくしょう並のイリュージョンでスジをひける姫様な時点で、もはや確定事項となっている。
  大量の銭を抱え、船による兵給線が確保され、明確な権威を旗印に神速で進撃する軍神の攻撃を織田軍は防ぐ立場に立たされたのだった。

「加賀で防ぐぞ。
  尾山御坊を落とした方が、この戦を制することができる!」

 尾山御坊を守る一向一揆の大将は本願寺から派遣された七里頼周で、人望がなくて篭っている一向一揆勢は分裂していた。
  尾山御坊そのものもそれぼど堅城という訳でもない。
  号令を発して織田軍を進撃させた織田信長だが、自身は大聖寺城から動かずに早馬を持って朝廷に上杉家相手の和議打診の使者を出しているあたり、彼もまた一筋縄ではない。
  だが、朝廷和議了承の使者が到着する前に今度は西で前提をひっくり返す一大事が勃発していたのだった。

「備前国浦上家の重臣宇喜多直家が毛利に通じて謀反!
  浦上宗景は城を捨てて播磨に逃亡との事!」

 北陸で身動きが取れない状況で発生した信長の想定外の凶報に、「それが狙いだったか」と織田信長は悔しがったが、仕掛けたどこぞの姫は、

「上ばかり見るから足元をすくわれる。
  この西国には意外とチート野郎が転がっているものなのよ」

 とうそぶいて見せたとか。
  浦上宗景はたしかに英傑の一人で、備前・美作・播磨に影響力を持ち毛利を押える盾として織田と共闘関係にあった。
  実際に明善寺合戦では毛利軍相手に勝利したりと、国衆を良くまとめた彼自身が無能であるはずが無い。
  だが、実際に浦上宗景の手足となって毛利軍の攻撃を一手に引き受けていた宇喜多直家は、祖父にあたる宇喜多能家を浦上家の有力家臣だった島村盛実に殺されて流浪生活を経験しており、その為に浦上家自体に良い印象を持っているはずもなく。
  同時に野心家でかつ慎重な性格ゆえ、毛利家に内応していても自分の価値がもっとも高まる瞬間までじっと機を待っていたのだった。
  織田信長が尼子勝久と会見を持った事で毛利軍が動揺して吉川元春の軍勢を美作から山陰に戻したのは先に書いたが、失地奪回の為に美作に兵を出した浦上宗景の居ない天神山城を宇喜多直家は急襲。
  天神山城陥落と宇喜多直家謀反の凶報で美作に兵を進める余裕もなく、宇喜多直家蜂起と同時に兵を進めた小早川隆景に挟撃されるのを恐れて播磨に落ち延びる事しかできなかったのである。
  かくして、宇喜多直家は備前一国と美作半国の主に成り上がった。
  もちろん宇喜多直家の才と性格をとてもよく知っていた小早川隆景と珠姫は、腸が煮えくりかえりながらこの成り上がりを追認せざるを得なかったのである。 
  何しろ、宇喜多直家の毛利家の従属で毛利の戦線は一気に播磨を射程内に入れる事ができたし、吉川元春を出雲に戻す事で対尼子残党に睨みを効かす事もできる。
  何より一番大きかったのが、浦上戦の(表向きは)毛利大勝利と、尼子残党への恐怖からやっと当主たる毛利輝元の権威がまがりなりにも確立し、毛利家中がとりあえず収まったというのか一番の成果だったりする。
  大友家以上に難のあった毛利家の家督継承のごたごたがやっと沈静化するのであるならば、

「備前と美作半国は安いわよ。
  最高値でつかまされた時点で負けよ。負け。
  一応儲けがでてるからよしとしましょう」

 という珠姫の呟きが残っている時点で、浦上家で起きた一連の騒動が彼女や小早川隆景の仕掛けではなく、織田信長が作った状況を宇喜多直家が最大限に利用したというのが真相だろう。
  なお、珠姫は小早川隆景に文を送り、宇喜多直家から取っていた人質を解放している。

「あれに人質なんて無意味よ。
  ならば、開放して寛容さをアピールした方がましじゃない」

 という理由からだが、状況が状況ゆえに大量の元浦上系家臣団を抱え込んで内乱に脅えながらも、宇喜多直家はその地理的状況と謀才から織田信長や珠姫や小早川隆景を翻弄し続けるのだがそれは後の話。


   
  織田信長にとっての西の凶報はまだ続いた。

「三好義継が兵数千を伴って讃岐で蜂起!
  三好三人衆と合戦に及んで、三好三人衆が敗北したとの事!」

 三好義継が落ち延びたとしたら四国しかない事は織田信長も分かっていたが、飾りでしかなかった彼に四国奪取ができるだけの兵があつまるとも思えず、彼が主導していた三好と長宗我部の和睦時に彼の首をもってこさせればいいと思っていた。
  そんな彼に数千もの兵が付き従って讃岐に上陸したのがまず信じられなかったが、織田信長はえらい金持ちで銭で兵をかき集めてはその惨敗ぶりに頭をかかえる姫様の御社衆を失念していたのである。
  畿内にまで兵を連れて出ばったはいいが、何もなす事無く帰還をする予定だった立花家手勢と御社衆三千が手品の種である。
  もちろん、畿内において政治的価値が急減しつつあった三好義継を松永久秀の仲介で出奔させたのも珠姫である。
  三好家の弱体化は三好三人衆を中心とした集団指導体制による意思決定の遅さであると見抜いていた彼女は、それゆえに何よりも頭である三好義継を必要としたのだった。
  四国と畿内にまたがって大領を支配していた三好家は、それゆえに地方の国衆の権限が大きすぎて誰が信頼できる味方であるか分からないという構造的欠陥を抱えていた。
  安宅冬康の帰還を求める三好家に対して「あそこは死地だから」と拒んだ珠姫の理由はここに存在する。
  三好義継を帰還させて阿波・讃岐を騒乱状態にしたのはそれが理由でもあった。
  この状況で誰が敵で誰が味方かはっきりさせるつもりだったのである。
  もちろん、彼女とて慈善事業をやっている訳ではないから、兵三千の代金として淡路をもらって(毛利と安宅冬康の影響力が大きいので、実質支配していたのだが)いたりする。
  この結果、三好家は四国に閉じ込められると同時に当主である三好義継が常時阿波にいるという状況になる為に、三好義継が勝利したら意思決定の迅速化が狙えるだろう。
  そして、阿波・讃岐の騒乱状態を長宗我部が黙って見ている訳がない。
  必然的に土佐一条領の問題は棚上げして阿波に介入してくるだろう。
  このあたり、阿波や讃岐より土佐一条領を重視しているのも理由がある。
  珠姫は南予遠征時から海上輸送の手間を考えるとここで一戦やらかして泥沼に陥ったら、島津や竜造寺への対処が遅れかねないという認識から大友家家臣団には内緒だが四国の領土に対しては『放棄も構わぬ』という姿勢を貫き続けていた。
  対長宗我部戦が開戦すると同時に島津家や竜造寺家が対大友家に宣戦布告し、とどめに彼らのバックに当たる織田家が介入するなんて全面戦争に引きずり出される事は、

『大友家は最後まで中立を保ちつつ、中央の勢力の侵食に対抗しながらも栄誉ある降伏を画策する』

 を密かな政治方針にしていた珠姫にとって悪夢以外の何者でもなかったのだ。
  だから、土佐一条領問題で『大友家に対して長宗我部家が喧嘩を売った』という状況だけは、絶対に回避しなければならなかったのである。
  もっとぶっちゃけると、土佐一条領十万石の統治問題を穏便に解決できるのならば、四国全土を長宗我部にくれてやっても構わないとまで考えていたりする。
  同時に、阿波讃岐の混乱とそれに長宗我部が介入する事は、織田信長が朝廷や幕府を用いて用意した権威外交の全否定に繋がるという点を珠姫が見越してもいた。
  なお、讃岐国引田城近郊で襲い掛かってきた三好三人衆の軍勢三千に対して、三好義継軍四千で撃ち払って勝利したのだが、その勝利後に雇い主である珠姫から、

「御社衆って合戦に勝てたんだ……」

 と、雇い主としてあるまじき言葉を指揮官だった立花元鎮に吐いている。
  わざわざ三好義継一行を水城で船で直接入城できる引田城に入った事からも、初期は篭城しか考えていなかった事が伺える。
  それを覆して一戦及んだのも実質的な大将だった立花義鎮の主導と言われ、この一戦での勝利で十河存保や三好長治が三好義継側に寝返るなど四国情勢が一気に優勢に傾いたので何も言わなかったりするのだが。
 
 
 
  話がそれたが、現状において西の情勢変化に対処できないばかりか、姉川での大敗のトラウマを織田軍が撃ち払えるか大いに心配していた織田信長だからこそ、最初から和戦両様の構えで上杉輝虎に当たろうと決意していたのだった。
  だが、それは最悪の一手だった。
  自分が合理主義者である織田信長にとっては、義なんて訳の分からないものによって行動を決定する上杉輝虎の動きが最後まで理解できなかったのである。
  後の歴史家は語る。

『織田信長が犯した失敗は、大友珠と同じ思考を上杉輝虎がしていた、もしくは大友珠と上杉輝虎が連携して動いていたと考えてしまった事にある』 
 
  こうして、織田信長の生涯で最大の惨敗と軍神上杉輝虎の名前を不動のものにした第二次倶利伽羅峠合戦の幕が上がる。


 


戻る 目次