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大友の姫巫女

外伝その六 ヴェネツィア共和国十人委員会

 私ね、この街が奇跡でできているのは知っているけど、素直にそれを頷けないのよ。
  だって、この街のモデルになった街を知っているから。
  あのヴェネツィアという水の都が、どれほど奇跡をあてにせず、謀略と血によってその奇跡を維持していたか知っているから。

 ――水の星の水先案内人に対して、とある観光客が漏らしてしまったつぶやきより――

 

 


  それは、届いた事が奇跡になる手紙だった。
  はるばる極東からやってきたその手紙は嵐にも遭う事無くリスボンに着き、そこからいくつか経由してその目的地に届けられたのだった。
  手紙の出し主は極東の島国でその名を知られつつある大友家の珠姫。
  送り先は、ヴェネツィア共和国十人委員会あてである。

 ヴェネツィア共和国十人委員会。
  それは最も高貴なる共和国の実質的な権力機関であり、アドリア海の海の女王にして東地中海貿易によって富を得、大航海時代とオスマン帝国によって斜陽の道を歩み始めている国の情報機関の統括部門でもあった。
  まず、彼らはこの手紙がはるばる極東から、どうして無事に届けられたのか不思議に思わざるを得なかった。
  それは蜜蝋で閉じられた大友家の家紋である杏葉が彫られた筒の表題に流暢に書かれたラテン語でこう書かれていた事で氷解する。


  退場の後に惜しまれる君主であったアンドレア・グリッティ宛に


  これほどピンポイントにヴェネツィア共和国の諜報機関を刺激する文句があるだろうか?
  アンドレア・グリッティは、ヴェネツィア共和国の元首であったが、1538年に既にこの世を去っている。
  頭の文句など、彼が言ったとされる文句「喝采を浴びて登場する君主より、退場の後に惜しまれる君主でありたい」の言葉を取っているのである。
  もちろん、珠姫はそれをモチーフにした前世知識を使ったいたずらでしか無いのだが、対オスマン戦争に追われて風雲急を告げていたヴェネツィア共和国の諜報員達にとって悪戯ですまない価値を秘めていたのである。
  何よりもこの手紙の経路が分かった事によって、更にこの手紙の信憑性が増す。
  この手紙の情報がヴェネツィア共和国の諜報員に届いたのは、リスボン――ポルトガル王家――からの極秘情報だったからである。
  種を明かせば簡単な事で、珠姫はこの手紙をポルトガル船に託したのである。
  既に、スペイン船団が府内に殴りこみをかけて敗退し、珠姫が持ちかけたルソン共同攻撃提案にマカオのポルトガル商館は揺れに揺れた。
  で、そんな彼女が異国語で書いた偉人宛の密書の中身がどうしても気になる訳で、彼らはある手段を取ってその手紙を入手したのである。

「積んでいた船が難破したらしく……もう一度書いていただけませんか?」

 この時代の難破率が高い事を知っていた珠姫はそれを了解し、こうして彼女の密書はマカオにて開けられたのである。
  それは、あまりに衝撃的であったが為に、もう一通の密書と共に難破という事にして闇に葬られる事になった。
  だが、その詳報は本国であるポルトガル王家に、最重要機密として届けられたのである。
  そのポルトガルを見張っていたヴェネツィア共和国の諜報員は、あまりに不自然なポルトガルの動きに違和感を感じて調査を進める。
  それが、全ての始まりだった。
  既に、極東の島国にてスペイン船団が全滅した報告は届き、捕虜も釈放されたので、彼らの幾許かはこの欧州に戻ってくる事になる。
  だが、情報はそれより速くこの欧州に届いて波紋を投げかけていたのであった。
  スペインとポルトガルの間では双方の使者が激しく往来しており、その事態の異常性に欧州各国も何事と目と耳をすましていた。
  そんな中、ヴェネツィア共和国が一歩先を行く事ができたのは彼らも海洋国家であり、船乗りにの心理を国家要人まで持っていた事があげられるだろう。
  つまり、船乗りを買収したのである。
  もちろん、そんなに高くない情報だが、情報というものはかけらを組み合わせる事によって、恐ろしいほどに化ける。

 ――ローマでは枢機卿が集まって、イエズス会の修道士を急遽召喚した――
  ――スペインは新大陸に派遣した船団の数を大急ぎで把握しようとしている――
  ――またバンカロータ(国庫支払い停止宣言)が行われるかもしれない――
  ――ポルトガルのインド洋への船団派遣予定が急増している――

 これらの事態がマカオからの報告後に始まった事を、ヴェネツィア共和国の諜報員は掴んだのだった。
  何かが起こっている。
  それも欧州ではなく、植民地で。
  世界に進出している最先端であるこの二カ国の異常は、そのまま欧州全域の政治環境を激変させる。
  何かに慌てたスペインの行動は、ネーデルラントの社会不安に影を落とし、スペインとの関係が悪化しつつあったイングランドやスペインの不倶戴天の敵であるフランスなどは、この状況から何かを得ようと蠢き始めていた。
  それは、ヴェネツィア共和国にとっても人事ではない。
  対オスマン戦争において、もはやヴェネツィア単独ではオスマンに対抗できなくなり、西地中海に影響力を持つスペインの助力は絶対に必要だった。
  ポルトガル船員達の話を集めたヴェネツィア共和国の諜報員はそこで決定的な情報を得る。
  極東の島国にて、スペイン船団を全滅させた姫君がスペインに対して宣戦布告し、その兵を集めているという情報を。
  その島国の名前はジパング。
  かのマルコポーロに『黄金の国』と呼ばれ、現在では産出する銀と高級娼婦によって欧州に名前が知られている島国である。

 スペインが極東に兵を集める。
  それは、対オスマン戦において劣勢を強いられているヴェネツィア共和国にとって、悪夢と言って良かった。
  と、同時にかの姫がアンドレア・グリッティ宛に何か密書を送った事もついに突き止めたのである。
  ポルトガルは何かを知っている。
  それは、間違いなくヴェネツィアにとって都合の悪い事だ。
  だが、その密書の中身が分からない。
  ポルトガル王家の最重要機密に指定されたマカオ総督の報告書の中身にまで手が届かず、諦めかけていたその時、その密書が彼らの手に入ったのである。

 かれらが敵としていたオスマン帝国から。

 珠姫の悪戯は十重二十重に手が混んでいた。
  情報のタイムラグを使い、「死んでいるのを知らない事にして」ヴェネツィア共和国の元首に密書を送る。
  アンドレア・グリッティという名前も計算づくだった。
  彼は対オスマン戦争の矢面に立ちながら、そのトルコ人に愛された人物でもあり、若かりし頃、スパイとして処刑されかかった時に当のトルコ人達の嘆願によってその命を救われた人物でもあった。
  イスラム商人に渡れば、ほぼ間違いなく届けられるだろうとの珠姫の確信は間違っていなかったのである。
  そこまで見据えて、確実に止められるだろうポルトガル船経由とは別に、大陸の倭寇にもこの手紙を託したのだった。

「それ、イスラム商人に届けてくれない?
  お金は、たっぷり払うからさぁ」

 この時、珠姫が支払った代金は、毛利から安定供給された事で手に入った膨大な銀だったという。
  もちろん、ただ手紙の運搬をさせる為だけではなく、他の仕事も一緒ではあったが、悪戯にしては桁が大きすぎる金額である事は間違いではない。
  裏社会は金が支払われている限り、その信用は恐ろしいほどに高い。
  ちなみに、この時の銀は後に大砲つきのガレオン船と、当時の欧州の娼婦達着用の肩から胸元まで開いたドレス数十着となって遊女達のブームの一つとなるのだが、それは別の話。
  難破の危険を考えてポルトガル船と同じように数通に分けられたこの手紙は、ゆっくりとユーラシア大陸を渡り、イスラム商人の手からオスマン帝国帝都イスタンブールのヴェネツィア共和国大使館に届けられたのであった。
   
  そして、この手紙を持って十人委員会は開かれる。
  そこに書かれていた事は、荒唐無稽かつ驚愕と恐怖に彩られていた。

 彼女は隷姫航路と呼ばれるようになった、女奴隷の安定供給を憂い、現在の地中海と紅海の陸上部の人間の疲労を指摘。
  全てを船と港で完結できる交易路システムを提案していたのである。
  その方法とは、太古に掘られながら現在は砂に埋もれてしまったスエズ運河の再開通だった。

 後の世にスエズ運河と呼ばれるものとは違い、紅海と地中海を結ぶ運河はナイル川を遡って紅海へと繋がる運河の事である。
  砂に埋もれたのも、その管理をしていたエジプトの衰退や、シルクロード等を代表するように陸路の整備で十分だったというのもあるだろう。
  だが、そんな時代とは違い、既に交易量はあの頃と比べて莫大な量にのぼっている。
  しかも、彼女が供給し欧州で憧れとなりつつある高級娼婦、『大友女』は人間である。
  遥かに取り扱いが難しく、現在の隷姫航路は万もの女達の屍の上に成り立っていると言っても過言ではない。
  そんな状況に対して、珠姫は途中で死ぬ女達を減らす為にこの提案をしたのである。
  ナイル川の逆流と十分な積載量を持つ船も運がいい事に存在していた。
  時代のあだ花として消えるはずだった、ガレアス船である。
  帆船とガレー船の中間的な能力を持つこの船は、ナイル川遡上に耐えられる動力を持ち、積載量も莫大であった。
  そこまで指摘した珠姫はこの手紙の最後をこうしめくくったのである。

「私は、これをオスマン皇帝に提案し、この航路の露となる女達を減らしたいと思っています」

 十人委員会の委員達は誰も語らない。
  いや、語れない。
  彼女が何を言っているのか、分かるがゆえに、その恐怖を振り払うのに一杯なのだった。
  インド洋と地中海が船で直接繋がる。
  それは喜望峰経由で交易をしているスペインやポルトガルにとって、致命的なまでに競争力を失わせる事になるだろう。
  スペインやポルトガルがうろたえる訳が分かった。
  それは、東地中海の交易圏を辛うじて押さえているヴェネツィア共和国にとって、起死回生の一手になるだろう。
  と、同時にオスマン帝国が、手のつけられない超巨大国家に成り上がるのも意味している。
  現在の東地中海のオスマン海軍だけでも独力で対抗できないのに、紅海やアラビヤ海のオスマン海軍が東地中海にやってくる事を意味する。
  スエズ運河掘削などできるのかという疑問だが、それを疑う者はこの場にいない。
  かつてあったという事は、現在でもできるという事だし、イスタンブールと呼ばれるかつてのコンスタンティノープルをオスマン帝国が落とした時、「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれる陸路から艦隊を金角湾に送り込むという荒唐無稽な戦術をやらかした連中である。
  それぐらいやりかねないという空気の中で、改めてこの密書の意味を考える。

「何故、我々なのだ?」

 この密書は本来ならばオスマン皇帝に差し出されなければならない密書である。
  だが、差出人はアンドレア・グリッティ、ヴェネツィア共和国の元首の名前を使っている以上、間違いなくヴェネツィア共和国宛であろう。
  つまる所、この密書は装飾や説明を除くと、たったこれだけしか書かれていない。

「これから、オスマン帝国が手のつけられないぐらい急成長するよ」

 と。
  いや、オスマン帝国にも確実に届いているだろう。
  オスマン帝国は、老いたとはいえ大帝スレイマン1世が率い、その下の大宰相であるソコルル・メフメト・パシャも理知的で冷静な人物で隙などない男だった。
  スエズ運河掘削は提案されるのならば、そのオスマン帝国の栄光をかけて必ず達成されるのだろう。
  では、その時ヴェネツィアはどうすればいいのだろう?


  彼らは知らない。
  この密書を書いた珠姫はこれを悪戯としてしか見ていなかったという事を。
  ほら話であるがゆえに、どうなってもいいやと物事を果てしなく軽く見ていたという事を。
  ヴェネツィアに送られたのも、かの街がいずれ火星に移った時にできる水先案内人の事を考えていただけだったという事を。
  と、同時に彼女がそんな奇跡の街の元ネタが悪辣非道で奇跡などまったく当てにせずに、独立を維持しようとしていた事を知っており、送ったら何かやらかしてくれるだろうと考えていた事を。
  あわよくば、レパントの海戦前に、キリスト教連合軍に対して内部分裂が起こればいいな程度にしか考えていなかったという事を。


  ヴェネツィア共和国はそんな珠姫の期待に見事に答えた。
  スレイマン1世の死後、その後を継いだセリム2世の功績として公表されたヴェネツィア共和国の屈服と呼ばれる、外交交渉によって欧州はオスマン帝国の嵐がスレイマン大帝が去っても続く事を思い知ったからである。

 ヴェネツィア共和国は、オスマン帝国に対し通行料として六十万ドュカートを向こう六年間支払う。
  ヴェネツィア共和国は、オスマン帝国に対しキプロス等の年貢金として年間三万ドュカートをを支払う。
  オスマン帝国は、ヴェネツィア共和国に対しオスマン帝国内の経済活動の自由を完全に保障する。


  そして、セリム2世を称える功績として、ヴェネツィア共和国から奪った金を使ってスエズ運河掘削が開始される。
  後に、それを知った珠姫は、大笑いしながら叫んだという。

「これでレパントが消えたわ!」

 と。


 

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