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大友の姫巫女

外伝その一 剣豪将軍 一の太刀

後に永禄騒乱と呼ばれる畿内の動乱のさきがけとなった将軍足利義輝の失踪は、後の歴史家達の調査によって当事者達の誤算によって引き起こされた事が分かっている。
  特に、最大の誤算は義輝自身が己の存在を軽視していた事だろう。
  彼は、この時点で政治的に死んでいたのは事実だった。
  だが、政治的死亡と現実の死亡を同一に考えていたのが最大の失態だったといえる。
  もっとも、その失態の結果、彼は皮肉にも生命も政治的にも息を吹き返す事になるのだが。


  最初は一週間で戻るつもりだった。
  それが既に十日を過ぎている。
  伊勢大河内城。そこが義輝の今いる場所だった。

「一の太刀を教えてもらいたい」

 それがこの場所にいる理由だった。
  己の命が半年と分かった時思ったのは、いかにして将軍として散るかだった。
  御所で斬り死にでは、皆に迷惑がかかる。
  松永久秀や三好三人衆が攻めてきたら一人腹を切るつもりだった。
  だが、それは剣豪として納得できる死に方ではない。
  せめて剣豪として頂点を極めたいという欲求が抑えきれなくなり、こうして北畠具教に会いに来たのだった。
  兄弟子にもあたる北畠具教は義輝の話を聞き、そして静かに口を開いた。
 
「教えられませぬな」

 その一言が意外だったゆえに眼光鋭く義輝は問い詰める。

「何故か、教えていただけるのでしょうな?」

 その眼光にも顔色を変えないあたり、具教も剣豪だった。

「その答えを問答にしましょう。
  分かったならば、一の太刀お教えしましょう」

 そして、義輝はこうしてまだ伊勢に居る。
  滞在中、京で会った大友の姫が伊勢神宮に参拝していると聞いて、会いに行こうかとも考えた。
  あの姫巫女なら、この問答の答えが分かるかもと思い、そして頭を振ってその考えを打ち消す。
  これは将軍足利義輝の問題ではない。
  剣豪足利義輝の問題だ。
  将軍として無能に終わるのならば、せめて剣豪として名を残したいがゆえにここにいるのに、他の者の助けを借りるのは腕に覚えある義輝にとって屈辱でしかなかった。

 そして、将軍失踪が表面化し、畿内情勢がにわかに騒がしくなる。
  三好三人衆は慌てて主無き京を押さえ、久秀は大和にて力を蓄えている。
  義輝は自分がはっきりと政治的に殺された事を悟った。
  更に事態は悪化する。
  三好家内部の権力争いに敗れ、安宅冬康が逃亡。
  京を押さえた三好三人衆に近江六角氏が反発。弟義秋を保護し、三好と開戦を決意する。
  その目まぐるしい情勢の激変に義輝はいつの間にか忘れられている事に気づく。
  だが、剣の道への執着が忘却に打ち勝ち、義輝は静かに具教に与えられた問答を考え続けた。

 更に数日経った。
  三好三人衆と六角の戦の火蓋は、三好三人衆が義秋のいる近江国矢島御所を急襲するという、矢島合戦によって幕を開けた。
  義秋はからくもこれを退けたという話を義輝は耳にしたが、ここで何かをするつもりは、もうなかった。

 数日後。伊勢に滞在して一月あまり、義輝はついに答えを得たのだった。

「分かった。
  真の一の太刀とは存在しないのだろう?」

 同じ剣豪の顔で、具教は笑って答えた。

「お見事。
  よく気づかれましたな」

 具教の師に当たる塚原卜伝は無駄な戦いをしなかった。
  対戦相手を言いくるめて小島においてきた等その最たるものだろう。
  思考が、どこか久秀や珠姫などに似ているのだ。

「一の太刀という技があれば、相手はそれに脅え手を打たねばならぬ。
  そして、その太刀筋が見られても、それが広がれば太刀筋を変えて相手を惑わす。
  兵法にもあったな。
  戦は戦わずに勝つのが最上なりと。
  剣の道も同じか」

「剣の道だからこそです。
  生死を分けるからこそ、泥臭くても足掻き、醜くても勝ちにこだわり、そして命を大事にする」

 そこまで話して、具教は兄弟子として義輝に語りかける。

「すぐにこの技を教えなかったのは、来た時の義輝殿に教えても無駄だからです。
  一の太刀は死ぬ為に使う剣ではありません。
  勝つ為に、生きる為に使う剣なのです」 

 具教は笑う。
  彼の前には生に執着する剣豪がいる。

「たしかに、着てからすぐではこの心境に至らなかった。
  不思議なものだ。
  幕府の権威を守る為に剣を学んだのに、幕府を捨てて悟りを開くとはな」

 義輝も笑った。
  もう、この畿内に彼の居場所はないのが分かっているのに、こんなにも生が嬉しい。楽しい。

「では、これからいかがするおつもりで?」

「俺は死人だからな。
  幽霊として彷徨うさ。
  とりあえずは上州に。
  上泉殿に一の太刀を見せてこようと思う」

 こうして、全てを捨てた男は上野国に旅立つ。
  それが、東国大名にどれほどの影響を与えるか、彼に知る由もなく。
  そして、彼がかつて望んだ幕府再興の夢はこの地にて更なる戦と悲劇をもたらすのだが、それはまた別の話。


 

 

 

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