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大友の姫巫女

第二話 門司城攻防戦 後編 

永禄四年(1561年)十月 豊前国 松山城

「久しいな。大きくなった」

「父上もお元気そうでなにより」

 父と娘の会話は居並ぶ重臣達の視線の中、こうして始まった。

「宇佐の姫巫女の噂は耳にしている。
  父として嬉しい限りだ」

 父上たる大友義鎮は31歳。
  男として将として脂がのりだした時期で才気も溢れていた。

「わたくしにできる事は、死者への弔いと、陣の士気を高める事。
  傷を負った者に手当てをする事しかできませぬ。
  戦は殿方のものゆえ」

 十歳児の幼女が戦場でできる事等限られている。
  まず士気高揚の為に最前線まで顔を出した。
  実際、矢が飛んでくる所にまで出張って戦勝祈祷をしたのだ。
  生きた心地がしなかった。あの時は。
  そのかいあってか、先陣の大友軍の士気は高い。
  マスコットとして振る舞う以上の事は求められていなかったのだろうが、私はそれ以上の仕事をすでにしていた。
  今回の門司城侵攻の前に大友軍は豊前の反大友勢力を掃討している。
  宇佐衆及び宇佐八幡も大友の掃討リストに入っていたのだが、私という人質がいた事で宇佐大宮司宮成公建殿及び宇佐衆が裏切らなかった事が大きい。
  もちろん、大友が攻め込んだ時には真っ先に私が殺されるのは目に見えていたので、必死に生き残り工作を図りましたが。

 最初にやったのは宇佐近辺の村々を歩いて、村長の話を聞いた事。
  えてして、老人は子供に甘いから可愛さアピールで支持ゲットなのです。
  もちろん実利の方も忘れていない。
  彼らが語る愚痴や懇願、要請などは全て手紙で父上と爺に送っている。
  その上で、対処できる事は父上や爺が対処していたので、私に頼めば大友が対処してくれるという状況を作れば後はこっちのものだった。
  更に神力を使いて豊作祈願も忘れない。
  不作にならない祈祷の結果、実りは例年より若干多かったのも私に味方した。
  その為、祈願と称して多くの村長が宇佐八幡にやってくる。
  水争いから、作物の出来、奉行の汚職、誰某の恋話まで皆が私に話してくれる。
  それらは今回の豊前制圧時に大いに役に立っているのだった。

 豊前南部、特に山国川以南を親大友側にできたので、門司攻めの前段階として大友軍は香春岳城を攻略している。
  香春は宇佐と同じ豊前一の宮でもあったので、この戦で焼失した香春再建を宇佐衆と奈多氏の支援の下で進めています。
  なお、再建後の香春岳城及び近隣の領地を治めるのは私だったりする。
  実際は名貸しで城代を置くのだろうけど父上ならやりかねんよな。
  この後立花ギン千代を城主にする許可を出すし。
  待てよ。このままだと私という前例ができて就任という形か。
  城井谷の宇都宮氏も今の所こちら側だし。敵でも味方でもいいけど、永遠に篭ってくれと心から思っているのは内緒。
  黒田官兵衛の数少ない汚点とまでいわれる城井谷攻めなんぞ私もしたくない。

「門司城を見てきたらしいな。
  お前の目にはどう映った?」

 父上の顔に武将としての凄みが滲み出る。

「爺の受け売りですが、後詰を何とかせねば落ちませぬ。
  既に毛利の後詰は赤間関に集まり、その兵は万を越えると」

 最初は佐田隆居の意見として取り上げてもらう。
  さて、ここからが本番だ。

「問題は水軍衆にあります。
  毛利についた瀬戸内の水軍が後方で暴れると城攻めに集中できませぬ」 

 居並ぶ諸将から感嘆の声があがる。
  あくまで爺の意見という事なのだが、メッセンジャーがょぅι゛ょだとこうなるわけだ。
  その内、「ぅゎ ょぅι゛ょ っょぃ」と呼ばれるのは時間の問題だな。

「次に私の手の者から気になる報告が。
  毛利に匿われていた秋月の忘れ形見が戻っているとの事」

 手の者って言っても、遊女や白拍子をかき集めて歩き巫女として雇っただけなんだけどね。
  これの持つ情報網は以外に馬鹿にならない。
  宇佐に入った私が父上の支度金で雇ったのが彼女達だったのだ。
  雇った彼女達は宇佐八幡と大友の娘である私の名前で身分を保証させた。
  この金と身分保障は彼女達にとっておおいに魅力的だったらしく、宇佐の門前町には遊郭ができる始末。
  そこでの金は私のお小遣いになっているから私としても問題はないが……娼館の主人が幼女。なんて背徳的な。自分で言うのもなんだけど。

 閑話休題。 
  私の報告に諸将だけでなく父上も顔色を変えた。

「まことか?それは?」 

「我らの背後を突くなら当然でしょう。
  この戦、かなり厳しいかも知れませぬ」

 私が口を閉じると諸将が皆口を開く。

「背後で秋月が暴れるなら、先に筑前を何とかすべきでは?」

「門司を残すのはまずい。
  秋月攻めの背後を今度は毛利が突く事になるぞ」

「秋月だけで終わるとも思えぬ。
  原田、宗像、筑紫等筑前の国衆も時同じく蜂起しかねん」

 諸将の議論にこういう場合は口を挟まない。だから、私と父上は黙って諸将の意見に耳をかたむけていた。
  史実での門司攻防戦の敗退の理由を考えると、戦略面の失敗が大きかったと私は思っている。
  大友の今回の軍事的目的は何か?
  豊前の掌握である。
  では、豊前を押さえる政治的目的は何か?
  領土の拡大もあるがそれは二の次。
  豊前を毛利から切り離す事で、間接的に博多を掌握する事にある。
  この当時、日本有数の貿易港として栄えている博多は町衆が統治しており誰の支配も受けていない。
  だが、博多が交易で栄える以上、その流通を握ることで周囲の大名は莫大な富を得ていたのだった。
  つまり、博多から堺にぬける瀬戸内交易がその富の源泉であり、関門海峡支配が最終目標となる。
  その為には水軍が必要なのだが、豊後水軍だけでは安岐水軍だけでなく伊予因島水軍まで押さえている毛利に勝てない。
  戦う前から負けている戦だったりするのだ。実は。

「何か申したき事があるのか?」

「いえ。何もございませぬ」

 考えていたのがばれたのだろう。
  父上が私に声をかけるがここはいらぬ口を挟む場所ではない。
  既に門司よりも筑前の不安定さに皆が気を取られている。
  後は門司から兵を損なわずにどうやって筑前に転進するかそれは諸将の仕事だ。

「構わぬ。申してみよ」

 そこまで言われると何か言わないといけないだろうなぁ。
  さっきまで考えていた、『戦う前から負けている』なんて言ったら機嫌悪くするだろうし。

「されば。
  この戦、叩くべきは門司の城ではなく、後詰の毛利水軍衆かと。
  水軍衆を叩けば、門司の城への後詰はもちろん、我らが筑前を攻める時に、彼らは手を出す事はできませぬ」

 私の言葉に諸将の視線が変わる。

「毛利の水軍は我らより多いぞ。
  それをどうやって叩く?」

 父上の言葉に私は笑ってその策を告げた。

「父上。叩くのは船ではございませぬ」

 と。

   
  大友軍の門司城総攻撃が開始された。
  攻めるは大友家の方分(かたわけ 方面軍司令官)の臼杵鑑速と吉岡長増。
  その攻撃は熾烈を極めた。
  毛利側は門司城に小早川隆景を入れ、毛利水軍が大友軍の背後を突くために矢鉄砲を陸地に放ちながら大里に兵をあげた。
  それは私が待ち望んだ瞬間だった。

「兵士諸君。
  任務ご苦労
  さようなら」

 私が手を振り下ろすと、爺が兵達に命じ、かき集めた鉄砲千丁が一斉に毛利兵に襲い掛かった。
  こちらの兵は穴を掘りその中に身を隠し、船を下りた毛利兵は遮蔽物の無い海岸上で次々と屍を晒していった。
  プライベートライアンみたいになるかなと思っていたがまさかここまでとは。
  火縄銃は連発ができないから数で補い、波と砂で足を取られる毛利兵は格好の的だった。
  とはいえ、射程が短い火縄銃でつるべ打ちにできるとは思っておらず、本格的に上陸しだした毛利兵に私は防ぎ矢を当てる事にした。

「放てぇ!」

 鉄砲隊の護衛についていたのは大友の軍神戸次鑑連。立花道雪の名前の方が有名だろう。
  八百もの弓を毛利兵に向けて放ち、鉄砲隊の弾込めの時間を稼ぐ。
  次々に射られる毛利兵は組織的攻撃ができない。
  そしてまた轟音が響き、毛利兵が血を流しながら波に攫われてゆく。
  この大浜の戦は一刻もかからなかった。
  大里に上陸した毛利兵はその殆どが屍を晒し、毛利水軍も途中で諦めて去っていったからだった。
  この後方での戦に毛利側は落胆し、大友側は大いに士気をあげた。
  後詰の毛利軍を叩く事を前提に組まれた後方部隊に戸次鑑連を当てて、上陸時の毛利兵を狙うという策は図に当たり、以後、小森江・恒見でも大友軍は毛利軍を叩き潰した。
  その間も門司攻めは続けられていたが、大友軍が後方を襲う毛利軍を潰す為に本腰は入れていなかった。

 11月に入り、大友軍は門司城に対して和議を求める。
  条件は毛利軍の退去と門司城の破却。
  筑前の秋月の蠢動もあり大友もこれ以上の戦をしたくなかったという理由がある。
  既に数度に及ぶ後方遮断の失敗に毛利側の士気は落ち、尼子戦に追われている毛利もこれ以上の戦力を長門に貼り付けておくわけにはいかなかったのだった。
  この和議に毛利方も同意し、門司での戦は終わった。
  損害は大友が兵一万五千を用い、死傷者は千あまり。
  毛利は後詰を含めて兵一万八千を用い、三千近い死傷者を出していた。
  一応大友の勝利と記載されるだろうが、結局の所引き分けという所だろう。
  父上は松山城に田原親賢を置いて毛利への押さえとし、私の城となった香春岳城の城代に志賀鑑綱を指名して豊後に帰っていった。


  この戦以後、「大友の戦姫」「宇佐の姫巫女」の名前で私の名前が広がる事になる。
  それは、更なる修羅の道の始まりでもあった。
  がんばらないと。


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